第91話 赤ん坊、感心する

 覗き上げると。

 それは、見たこともない画面構成の絵なのだった。

 スイカと呼ばれる果実を盗んで逃げる、子鬼を描いたものらしい。それが、左奥から右手前へ向けて、斜めに走り込んでくるように見えている。

 両手でスイカを頭上に掲げ、得意げな子鬼の満面の笑顔。大げさとも思える大きな歩幅で駆け、両足は宙に浮いている。

 何より、左奥から追いかける村人らしい姿は小さいのに、右手前へ踏み出す子鬼の左足は異様に大きく、画面から飛び出してきそうな迫力だ。

 どうも、それを離れて目にした妃は、指定席にじっとしていられなくなったということのようだ。


「こんな落ち着きのない絵は、見たことがないぞ」

「その、妃殿下、わたしが提案した構図なんです」

「で、あろうな」


 小さく肩をすぼめたシビーラの発言に、素っ気ない声を返す。

 そうしてから、じろりと二人の少女の顔を睨み回した。


「お前たち、まともな絵を鑑賞したことがないのではないか」

「あ、その……」

「しかし信じられぬことに、この噺の挿絵としては、これ以上なく合っている」

「え、え……?」


 一瞬ぽかんと目を丸くしたシビーラの後ろで、タベアが鷹揚に頷いていた。


「左様でございますね。この本を見た子どもにとっては、この上なく場面の印象が伝わるものと存じます」

「うむ」


 無表情に頷く妃に。

 どう反応していいか分からない様子で、シビーラまでカティンカの現状が伝染したかのように硬直フリーズしてしまっている。


「お前たちがまともな絵を鑑賞したことがないというのが、幸いしているのかもしれぬな。お伽噺の挿絵は、この調子で描くとよい」

「は、はい……」

「かしこまりました」


――そう言いたかったのなら、侍女たちの心臓に悪いような切り出し方は、しないでほしい。


 思っていると。

 振り向いた金髪夫人に、ぎろりと睨み下ろされた。

 すぐに、ふんと鼻を鳴らして、妃は次の紙を取り上げている。


 つまりどうも、この二人が考案した挿絵は、非常識レベルに画期的な構図になっているということらしい。

 王侯貴族の館などに飾られている絵画には、肖像画はもちろん、神話や歴史に材をとったものがある。

 しかし動きの少ない肖像だけでなく、戦闘場面などを描いたものでもその動きの向きは水平方向に留まって、まさか斜め向きに画面から飛び出しそうな構図をとるようなものは一切あり得ないらしいのだ。

 そんな今まで目にしたこともないような挿絵を見かけて、泰然と構えていた妃も、じっとしていられなくなったという顛末か。


 他の絵も、妃やタベアの常識を超えた出来になっているらしい。

 画面を斜め線で二分割して、右上には森の木の下で戦利品の果実に齧りつく子鬼、左下には村でいきり立って相談する農民たち、を同時に描いた一枚絵。

 燃え盛る家屋から老婆を背負った子鬼が飛び出してくる、弾けるような動きを見せつける絵。

 どれも呆気にとられる表情で、半ば頭を抱える様子ながら妃は承認を与えていた。

 何よりもそれらのすべてが最小限の線画で描き出されていることに、僕としては感心せざるを得ない。


 これで一作目のお伽噺については原稿が揃ったことになるので、メヒティルトに命じて作業小屋へ届けさせることにした。今手掛けている作業は止めてこちらの彫りを最優先で進めるように、と伝言をつける。

 三十ページと少しの枚数なので、見習いも含めた全員でかかれば、明日の午前中には印刷まで終わるだろう。

 僕が与える指示を、後ろで妃がわけ分からない様子で聞いていたようだ。


「本当にこれが、明日には本になると申すか」

「ん。じゅんちょうにいけば」

「信じられぬな」


 残った者の作業としては。ナディーネの書写はもう半分以上終わったようだ。

 カティンカとシビーラはその描き終わった原稿を見ながら、新しい挿絵の相談を始めていた。六十ページほどの宮廷が舞台の恋物語なので、落ち着いた絵柄の挿絵を四枚ほど、と注文を出してある。

 お伽噺のものとはうって変わって、こちらは貴族屋敷に飾られている絵画の印象に近く、ほぼ真横からの視点で整然と行われている舞踏会などを描くことにするようだ。

 実際に貴族の集まりを見たことのないカティンカは、シビーラやタベアから説明を受けたり、妃所蔵のドレスを見せてもらったりして、詳細を詰めている。

 一枚の絵が仕上りに近づくと、覗いた妃が唸り声を漏らした。


「さっきのと同じ人間が描いたものとは思えぬな」

「まったくでございます」


 横で、タベアも感心の声を落としている。

「でしょ」と頷きながら、僕もかなり驚愕の思いを押し殺していた。

 貴族社会の様子を描くなどおそらく初めてのはずなのに、ここまでカティンカの筆が見事な結果を表すとは、想像していなかったのだ。


 なおシビーラはカティンカが描画を始めると脇を離れて、ナディーネが書写した原稿にまちがいがないか校正をしている。元来読書が好きで、そうした見る目は確からしいのだ。

 戻ってきたメヒティルトは、お伽噺の残りの筆写を進める。

 明日までに、お伽噺八冊と物語一冊以上は書き写し終わりそうだ。

 その後も僕がまたザムと運動をした後、うつらうつらしている間に、かなりの作業が捗ったようだ。


 目を覚ますと、夕食の時間。また少し目先の変わった、栄養価の高そうな半固形物を口に運ぶ。

 侍女たちを働かせておいて、こちらは食っちゃ寝の生活。いい身分だ、と自嘲してしまう。

 しかしそう思いながら、あれ、と首を傾げる。


――貴族子弟、かつ赤ん坊の身として、何の不思議もないんでないかい?


 いい身分の貴族としては、配下の者に働かせて自分はでんと構えていて、当然だ。

 ここに来てようやく、僕も貴族らしくなってきたということか。


――いや、わずかここ数刻の話だけれど。


 今はまた、ナディーネが横に立って控えている。

 カティンカとメヒティルトはなかなか手放そうとしないペンを取り上げられ、テーブルから引っがされて、通常の侍女業務に追い立てられたらしい。

 あそこまでカティンカが一つの仕事に没頭している様子は初めて見た、とナディーネが呆れて零していた。

「後は明日のことにして、今日はもう片づけなさい」とタベアに申し渡されて、シビーラまで残念そうな顔になっていたようだ。


 夜も変わることなく、妃は茶を喫しながらの読書。

 その傍らで、僕はナディーネが一通り書写を終えた物語原稿を読む。

 校正を兼ねてだが、初めて読むタイプの物語が新鮮だ。吟遊詩人が書いたというに相応しく、リズミカルにうたうような文章が面白い。

 ちらり横目で睨みはしても、もう妃は赤ん坊の読書を「気味悪い」と取り上げようとしなかった。


 そんな並んでの読書は、日付が変わる真際まで続いた。

 妃にとってはいつもの日課らしいし、昼寝を十分にとった僕もとりわけ眠くなってこない。

 それでも、これもいつもの習慣なのだろう、そこそこの時間になったところで妃はタベアに追い立てられて渋々寝室に下がった。


「今、面白くなってきたところなのにい」

「また、明日という日がございます。夜更かしは健康と美容の大敵です」

「……分かりましたあ」


 苦笑しながらのやりとりが、何処か定型化したような聞こえ方をしてくる。

 僕はタベアの手でベッドに横たえられ、脇では妃が別の侍女に着替えの世話を受けている。

 そこそこほどよく眠気が差してきているのに、身を委ねながら。

 すん、と僕は鼻を蠢かせた。

 ことり首を傾げ、タベアの顔を見上げる。


「このかおり、なにか、はな?」

「干し花を樹脂に漬けて、香りを調えたものですよ。お部屋の香りつけなどに使います」

「はーうえのへやと、おなじかおり」

「そうでございますか。イレーネ様もまだ、これをお使いなのですね」


 隣で、ごそごそ身を横たえる気配。

 その金髪の婦人から、ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。


「何とも、進歩のないものよの」

「お休みなさいませ」


 静かに、侍女たちは下がっていった。

 灯りが持ち去られ、部屋は静かな闇に閉ざされる。

 傍らから、すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。

 とろとろと、僕も緩やかに意識が溶け落ちていくようだ。

 ともかくも、昨日からこの寝台で安眠できている、理由が一つ分かった気がする。

 改めて身を委ねて、この部屋の香りは何とも落ち着くのだ。

 最初の夜、まさか自分が後宮の廊下からこの香りを嗅ぎつけてきたとは思えないけれど。まさかのまさか、そんなことがあったとしても不思議はないと思えてきそうな。


――まさか、だよね。


 あの自室からだとすると、ザムの鼻でもこれを嗅ぎつけることはできないだろう。

 そう思いながら、不快も不審もなく、ただ穏やかに、眠りに包まれていくのが分かった。


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