第88話 赤ん坊、口説く 1

 侍女二人を執務室に送り出して、ナディーネだけを傍に置き、ソファに収まった。

 隣では、妃がまた読書を始めている。本当に、一日中読書と喫茶だけの生活らしい。

 それを思うと確かに、たまには変わった刺激がほしくなる気も、分からなくはない。


――玩具にされる方は、堪ったものではないけど。


 当然ながら妃の読書中は静寂を守る倣いになっているようで、傍に控える侍女も戸口の護衛も一言も発しない。

 テティスにはザムの運動を命じたので、今は姿がない。

 こちら側の脇に立つナディーネは、年輩侍女の所作を見習いながら、何処か緊張の面持ちだ。

 少し気分を変えてやりたいのと、こちらの退屈紛らしを目論んで。

 表情だけで訴えると、タベアは苦笑で動いてくれた。一度下がって、すぐに板の本を運んできてくれる。

 ソファの隅に移動して、ナディーネに新しいお伽噺の音読をさせる。

 それほど長くなく終わると、ぱちぱち手を叩き、タベアを見上げた。


「これも、うつしていい?」

「はい、どうぞ」


 昨日メヒティルトにさせた要領でナディーネにも書写の準備をさせ、簡易テーブルでペンをとらせた。

 横から僕が眺めていると、逆側からやはりタベアが覗き込んでいる。

 見ると、感心の口調で感想を告げてきた。


「ずいぶん、形の整った字を書くのですね」

「そのように、れんしゅうさせた」


 一般に、筆写の文字は個性のある筆致が尊ばれる。読みやすさ云々よりも他人が真似のできない勢いのあるものが、達筆だと尊重される傾向にあるようだ。

 さらに侍女で筆が得意だという者は概して、主の注文で手紙を代筆するなどの用途に特化され、そのための個性を磨いていることが多い。

 それに比べるとナディーネの場合は、師匠のヴァルターの筆跡が比較的没個性で読みやすいものだったのに加え、僕の注文がそれを真似た上でとにかく大きさ形が一定で統一されるように、というものだったので、そういった達筆侍女とは真逆のものになっている。

 おそらく後宮の長いタベアの目に、異様なものとして映っているだろうと思われる。

 筆写から目は離さず、そちらに訊ねかけた。


「こんなほん、なんさつあるの?」

「それほど多くはございません。確か、八冊だったと思います」

「じゅんに、みせてもらっていい?」

「はい」

「これ、きまったさくしゃ、いるのかな」

「地方の伝承ですので、作者はいないはずです」

「なら、かみのほんにしてうりだしても、だいじょうぶかな」

「紙の本――でございますか?」

「売る、だと?」


 それまで聞いている素振りも見せていなかった妃が、いきなり声を入れてきた。

 珍しく、はっきりこちらに顔を向けている。


「其方、そのためにそうした写本をさせていると申すか? そんな手間をかけても、わずかな冊数で売りつける当ても限られように」

「こうしてうつせば、なんびゃくさつもつくれる」

「馬鹿を申すでないわ。そんなに書き写す人手を、何処から集める?」

「いちどかけば、だいじょうぶ」

「どういうことだ」


 さすがにまだ、印刷についての情報はここまで伝わっていなかったようだ。

 ナディーネに命じて植物図鑑の冊子を二冊持ってこさせると、目にした妃と侍女は絶句していた。


「二冊――中身はまったく同じですね」

「紙を、このように使うのか。この同じものを、何百冊も作れると?」

「ん」

「何と……」

「これ、じは、そこのなでぃね、えは、かてんか、かんまつふろくは、めひてるとがかいた。それを、せんもんかが、うらがえしにきにほって、いんくをつけて、する」

「……うむ、何とな……なるほど、それでそのように一定で整った字の方が、木に彫りやすいわけか」

「ん。こんなかきかた、いま、うちのさんにんにしかできない」

「何と……」


 そのまま二人とも、冊子から目を離せないでいる。

 少し理解が追いつくのを待って、僕は話を戻した。


「で、どう?」

「ん、どうとは?」

「そんなほん、つくって、うれる、おもう?」

「うーむ、貴族の子ども相手、ということになるか」

「売れる、やもしれませんね。もちろん価格にもよりますが」


 妃が考え込むと。

 隣でタベアがゆっくり頷いていた。


「貴族の子どもに、読み聞かせが教育上望ましい、ということが伝われば、需要は十分にあるかもしれませぬ」

「なるほどの」

「しかもそれに、王太子殿下が幼い頃お読みになったお噺だ、と情報を乗せれば、貴族子女の間で新たな流行になっても不思議ではありません」

「……うむ」

「ほんとうは、うりあげのいちぶ、さくしゃにはいるようにしたい。これ、さくしゃいないのなら、かわりに、まとめさせた、きさきでんかにはいる」

「妾を金で釣ろうと思うなよ」


「王太子殿下が読んだ噺」という件に「第二王妃の推薦」という一言が加われば鬼に金棒、と思って話を向けてみたのだが、読まれてしまったようだ。

 ただその切り返しに、憤慨の響きはない。

 やや苦笑めいた顔で、妃は侍女の方を向いていた。


「新たな流行、というのは悪くない話じゃな」

「左様でございますね」


 以前から何となく聞いていたところではあったが、どうも王族貴族、特にその層の女性にとって、「新たな流行を作る」というのは特殊なステータス、えも言われぬ魅力があるようなのだ。

 この妃を説得するには、こちらの方が攻めどころになりそうだ。

 何しろこれまで、子どもにお噺を読み聞かせするための本というものは、一部の個人的な手書きのもの以外ほぼ存在していない。

 常識的に、親や子守りが聞いて覚えていた噺を思い出しながら子どもに語り聞かせるもの、なのだ。

 そこに、読み聞かせのための本が広く売り出されるとなると、画期的な変革が起こるということになる。確かに、貴族の中で新しい流行になっても不思議はないだろう。

 問題は、識字率の点だろうか。貴族子女も完全ではないだろうがそれ以上に、子守り職の者で字を読める比率は低いと思われる。


 ともかくも。

 一言二言侍女と話し合い、妃は頷いていた。


「ならば其方、試しにそのような本を一冊作ってみよ。許可を出すかどうかは、それを見てからじゃ」

「ん」


 昼食が終わったところで、ナディーネに伝令役を頼んだ。

 執務室のカティンカとメヒティルトに、こちらに戻るようにと。

 あちらでは動物図鑑の下書きが終わり、続いて鉱物資料の作成を進めさせていたが、話が変わってこちらを最優先にしたい。

 残った僕は、昨日メヒティルトが書写した分の校正をする。

 二十ページほどに収まった子鬼が活躍する冒険譚は、第一号のお伽噺冊子として相応しいと思われる。

 重ねた紙に覆い被さって検分する僕に、ふん、と鼻を鳴らして妃は自分の読書に戻っていた。

 代わりに横から見守る格好になっているタベアを、ふと見上げた。


「あの、きさきでんかがおよみのほんは、どういうの?」

「元吟遊詩人をしていた者に、書かせたものです。恋愛話や英雄の冒険譚など、つまり、物語ですね」


 聞くと、吟遊詩人という職業の者は、国の内外を問わず旅をして回り、先々で珍しい噺を聞きとって自分なりにまとめ、たいていはキートという楽器を奏でた音楽に乗せて、人々に聞かせていくらしい。

 長くそうした旅を続けた末、老齢になってここの王都に定住するようになった者が数名いる。第二妃はそうした人物を捜し当て、以前の持ちネタを文章にまとめる契約を取りつけた。

 文字を書けるか、文章にまとめる能力があるか、といった適性を見極め、今は三名の作家と契約しているという。彼らがほぼ二週間に一作ほどのペースで作品を仕上げてくるのを、妃はたいそう楽しみにしているらしい。

 結局この一年足らずのうちに、二十編程度の作品を集めることができたそうだ。

 作品の元ネタは、古くから伝承されて複数の詩人が共有していた定番作品、個人で収集したオリジナル作品、さらにそうした経験に基づいて最近新たに創作したもの、と多岐にわたるのだとか。

 聞いてみると納得のいく新作本の入手方法だが、驚いたことにこんなことを思いついて実行しているのはこの妃以外にいない、おそらく他国にも例はないだろうということだ。

 改めてこの殿下の本好き具合、その執念に感心してしまう。

 そんな話を侍女から聞いていると、こちらに目を向けないまま、本人が低い声をぼそりと送ってきた。


「これは、其方などに写させぬぞ」

「だめなの?」

「苦労して手に入れているのじゃ。人に見せるのはもったいない」

「たくさんほんにしたら、これもりゅうこうになるかも。こどもむけより、もっとおおくのひとに」

「もったいないな」

「おかねになるし」

「金に困ってはいないわ」


――まあ、それはそうか。


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