第89話 赤ん坊、口説く 2
第二王妃が生活費に困窮しているなどということだと、国の先行きが心配になる話だ。
それに加えて、この妃の部屋や生活様式を見る限り、ほとんど華美、贅沢さのようなものを感じさせない。もちろん王族に相応しくない貧しさを思わせるわけではないが、何というか余分なものがないという印象だ。
極端に言えば、本とお茶以外に金をかける対象がないのではないかという思いを抱いてしまう。
まあそれはそれとして、別な攻めどころはないか、と考える。
「でも、きさきでんかにりえきある」
「どういう利益じゃ」
「ほんがうれたら、さくしゃと、なかだちをしたでんかに、おかねがはいる」
「金に困っていないと言うに」
「さくしゃ、しゅうにゅうふえる」
「まあ、それはそうじゃな」
「そうしたらますますやるきだして、あたらしいさくひん、ふえるはず」
「ふむ」
「もうかるとわかったら、ほかにさっかがふえるかも。そうしたらもっと、さくひんふえる」
「……ほう」
「もうけだけじゃなく、そんなもとぎんゆうしじん、おおくのひとによんでもらえたら、もっとやるきだすんじゃない?」
「……かもしれぬな」
思った通り。この妃にとって、金銭より、流行発信より、新しい物語が読めるということの方に魅力を感じるようだ。
じろ、とこちらに横目を送り、考え込む様子になっている。
しばらく考え、その頭が横に振られた。
「しかし、当てにならぬ。つまらない物語が増えても仕方ないし、面白いものは人に見せたくない」
――やっぱり、なかなかしっかりした自己中心的思考をお持ちのようだ。
「さいしょは、きさきでんかがみとめたものだけ、ほんにすればいい」
「ん?」
「でんかがおもしろいとおもって、よみあきたくらいのだけ、ほんにする。そのあとも、でんかがつまらないとおもったのは、ほんにしないでさくしゃにつっかえす」
「ああ、それなら」タベアが頷いた。「作家たちは妃殿下に認められる品質のものを書こうと奮起しますね」
「ん」
「うーむ……」
唸って、ややしばらく目を瞑り。
やがて、妃は侍女に苦笑いの顔を向けた。
「聞きしに勝る、悪知恵に長けた赤子じゃな、此奴」
「左様にございますね」
「……しつれいな」
そんなこんなで、「とりあえず一冊作ってみよ」と、こちらも妃から暫定の許可を得ることができた。
三人の侍女が戻ってくると、それぞれに指示を与えた。
メヒティルトには、僕が校正した分の微修正と、まだ見せてもらっていなかった残りのお伽噺をタベアに出してもらって、引き続き書写。
妃所蔵のうち、ある程度読み飽きたレベルでご推薦の物語を持ってきてもらい、ナディーネに書写を命じる。
カティンカの役目は、当然挿絵だ。
お伽噺の本には、全ページとまではいかなくてもできるだけ多くの絵を入れたい。物語の本にも数枚入れるのが理想だ。
ここのところいろいろ描いてもらうものを増やすにつけ、カティンカの才能には感心させられるばかりだった。
細密画、模写が巧みなのはもちろん、かなり簡略化した絵も見事に仕上げることができる。
少し前に思いつきで、「白い背景の黒ウサギと黒い背景の白ウサギを、それぞれできるだけ少ない線で、飛び跳ねる動きが分かるように」という指定で描かせたところ、すぐさま注文通りのものを実現してみせた。何より、ほとんど輪郭だけの描写なのに要求通りウサギの跳躍の動きが違和感なく表現されていることに、それを見た仲間たち一同感心しきりとなっていた。
今回のお伽噺の挿絵は、こうした簡略画が相応しいと思われる。子どもの目に優しい印象を与えるし、何より内輪の事情として版画作成が容易だ。
そういう指定で子鬼の諧謔譚の挿絵第一号、山村風景のラフ画を板に木炭で描かせると、驚くほどすっきり素晴らしいものができ上がった。
「ほう」と、覗いたタベアも感嘆の声を漏らす。
「これは見事ですね。あっさりして線が少ないのに、描いているものがはっきり分かります」
「でしょ」
「うーむ……」
我がことのように自慢してみせる僕の頭越しに覗き込んで、しかし妃は納得のいかない表情になっている。
何度か首を捻り、困惑めいた顔を侍女に向けた。
「何なのだ、これは。素晴らしく巧みな絵というものとはほど遠いにもかかわらず、稚拙というものとも違う。単純なようで、描くべきものはしっかり表現されている。こんな絵は、今まで見たことがないぞ」
「左様でございますね。王宮に飾られている絵画の見事さなどとは、別種のものと思うべきと存じます。どう評価されるべきか分かりかねますが、一つ言えるのは、子ども向けの本の挿絵にするならこれが相応しいのではないかと」
「だな」
まだ納得しきれない様子で、妃は頷いている。
第二号の挿絵は、宵闇の下、村祭りで踊る人々の輪に、こっそり子鬼が紛れ込む場面にする。
空は闇、下に
次々と描かれていくそれらを見て、見守る観察者たちから感嘆の唸りが漏れる。
何より、輪郭の形だけで表現される人の踊る姿が、何とも自然で無理なく見てとれるのだ。
いわゆる「デッサン力」がよほどしっかりしていないと、こうはいかないと思われる。
この辺、以前本人から聞いた話だが。端からは何ともコメントしがたい、カティンカの幼児体験から来ているものらしい。
カティンカが生まれ育ったのはそこそこ規模の大きい農村で、同年代の遊び仲間も常時十人以上いた。
しかしそうした遊びの場で、身体は大きいが動きのとろいカティンカは、なかなか仲間に入れてもらえないことが多かったようなのだ。
そのため、友人たちが活発にはしゃぎ回る様子を離れて眺めるばかりだったカティンカは、その姿を地面に描きとる楽しみを覚えるようになったという。いっ時もじっとしていない子どもの躍動を描きとめるために、そうした動きを表現するデッサン力が磨かれたらしい。
同様に、野山で見かけるウサギやネズミやの動きも地面画に描くことが多く、そうした描写力を習得する成果を得たようだ。
こちらにとっては何とも幸運な結果を生んでくれた幼児体験と言えるが、本人にとってはある種、トラウマになっていてもおかしくなさそうだ。そんな話を聞いていたナディーネとメヒティルトの同僚への態度が、しばらく異様に優しさに満ちて見えていた。
ラフ用の板の左から半分以上が、たちまちそうした村人たちの舞踏の様で描き満たされる。
木炭を握る少女の手が、その右側へ移りかけ。
止まった。
しばしの、沈黙。
見守っていた観衆の目が、ようやく異状に気づき始めて、描き手の顔に流れた。
――え?
木炭を持つ手が、中途で止まり。
困惑気味の顔が、瞬きも忘れ。
「どしたの、かてんか」
「……その……」
「ん?」
「……申し訳、ございません」
「どした?」
「その……子鬼って、どんな……でしょう」
「あ」
ぽかん、と。
ようやく懸案を理解して、僕はタベアの顔を見上げた。
この侍女もいささかながら呆然として、その視線を主の方に流した。
救いを求められた形の妃は、「うーむ」と低く唸る。
「……考えてみると、明瞭な姿形は知らぬな」
「何しろ想像上の存在で、誰も実際に見た者はいないはずですので。お噺を語る者も聞く者も、それぞれ勝手に想像するばかりかと」
「……だね」
「誰も見たことはないのですから、勝手に姿格好も決めてしまっていいのではないでしょうか」
「うう……」
タベアの助言にも、画家の手は動き出そうとしない。
困惑の表情を凍らせたまま、小さな呻きの声が漏れるばかりだ。
遅まきながら僕にも、天才画家カティンカの弱点が理解されてきた。
おそらく、観察力は人並み以上にあるのに、想像力に乏しいのだ。
要するに、実際見たことのあるものはかなり正確に表現できるのに、そうでないものには想像が及ばない。
これは、図鑑の挿画ならともかく、お伽噺の挿絵作成にはかなりの泣き所ということになりそうだ。
なお、話は逸れるけど。
侍女たちの中ではかなり有名らしい「困惑したカティンカの
言いつけられた仕事をどう処理していいか分からなくなると、頭を抱えて動かなくなってしまう、と前に言っていたのはヨハンナだったか。どうも、こういうことだったようだ。
それにしても描画に関しては文句のない才能を見せているのだから、こうした弱点についても何らかの対処の方法があるはずだ、と思う。
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