第108話 赤ん坊、提案される
「特に、この紙というやつときたら」王太子が苦笑いのような、複雑に顔をしかめた。「とんでもないぞ、ルートルフ。考えれば考えるほど、使い道の可能性が広がる。大げさに言えば、無限大の価値があると断じてよさそうなほどだ」
「ん」
「陛下や宰相と検討を加えていても、ある意味頭を抱えたくなるぐらいだ。他国に秘匿情報が流れないようにする、国内には生産が行き渡るようにする、というだけではない。ルートルフにも利益がもたらされるということを、形で示さねばならぬ」
「え」
「まあ、そうですな」エルツベルガー侯爵が頷いた。「このままでは、ルートルフの功績を王宮がそのまま取り上げてしまった印象になる」
「そなの?」
僕が首を傾げていると。
苦笑で、宰相も説明を加えてきた。
「同じような発明開発品が何処かの領で生まれた場合、今のルートルフと同じ扱いならば、そこの領主はまず製造法などの情報を秘匿して外に出すまいと考えよう。ルートルフも特許に関する利益は得られるだろうが、それは製造法を秘匿のままでも申請できるからな。そうして一つの領だけで抱え込むことになっては、たいして国家の利益につながらないことになる」
「ん」
「そういう前例を残すわけにはいかぬからな。ルートルフには相応の栄誉と利益がもたらされ、その事実が広く伝えられなければならぬ」
「はあ」
僕としては、特許使用料が入ってくるだけで十分すぎるという気がしていたのだけれど。
どうもそれだけでは、他者の目からは不十分に映るらしい。
ちらと見上げると、父の顔は何処か呆然と固まっていた。
溜息をつきながら、王太子が続ける。
「しかしそれにしても、紙の価値自体、我々でさえ掴み切れていないのだから、他の者にとってはなおさらだ。相応の栄誉と利益などといっても、どの程度のものが相応しいか誰にも判断できようがない」
「だね」
「その辺については継続的に検討していくしかないが、とりあえずはルートルフも明らかに利益を得ているということを示すべきだろう。ルートルフ、其方、商会を持たないか」
「しょうかい?」
「さしあたっては今の孤児たちを使って製紙と印刷、本の販売を行う、工房と商会ということになるか。特に印刷と本については、まだ何処も本格的には手をつけていない事業だ。先駆けとして、まちがいなく大きな利益が見込めるだろう」
「ん――」
実はこの案、以前からぼんやりとは考えていることだった。
いちばん大きな問題は、今作業させている二班と三班の孤児の扱いだ。
王宮に作業場を置いているのは、あくまで新製品開発のためという名目の臨時措置で、いつまでもこのままというわけにはいかない。
最初に王太子に対して、二週間からひと月、と断りを入れたように、その程度の時限を切った扱いを無理矢理捩じ込んだものだ。おそらく今でも、王宮庁の方では苦々しく思っているに違いない。
通商会議が終わったらもう孤児たちが身柄を狙われる恐れもなくなるだろうし、別な働き先を考える必要がある。
製紙や印刷は少しずつ扱う動きの商会が現れているので、そちらに預けるという案はある。しかし一方で、彼らに関してはまだしばらく僕の手元に置きたい気もある。
ここしばらく一緒に苦労をしてきたという愛着はあるし、製紙も印刷もまだまだ工夫と発展の余地がある、それを気心の知れた彼らと突き詰めていきたいと考えていたのだ。
という意味では、王太子の提案は渡りに船といえるわけだが。
考えていると。
「しかし、殿下」と、恐る恐るの調子で父が口を開いた。
「商会を開くなど、立ちはだかる問題が多すぎでしょう」
「そうだろうが、まあ何とかなるのではないか」
「赤ん坊が商会主となるなど。前例もないし、公的に認められないでしょう」
「そこは、名目上はベルシュマン卿が立てばよいのではないか」
「私にしてもルートルフにしても、商会の経営の知識はありません」
「そういう知識のある者を雇えばよい。貴族が上にいて、雇われ商会主に経営を任せるというのは、実際例があるのではないか」
「……ですか」
「あとは資金面の問題だろうが、当初は我々王族側から、出資と融資をする用意がある。おそらくそちらに今手持ちはないだろうが、近いうちにルートルフには高額の特許使用料が入るはずだ。返済の心配はないし、出資分の見返りは十分に期待できるからな」
流暢に返答する王太子と隣で頷く宰相の様子を見ると、あらかじめそちらで十分検討されている案らしい。
こちらもやや苦笑気味の表情で、宰相も口を入れてきた。
「他に問題といえば、ルートルフが出入りできる立地条件だろうが、適当な土地があるぞ。王宮とベルシュマン子爵邸の間に」
「そうなのですか」
「元ディミタル男爵の屋敷だった土地が、今は王宮の所有になっている。男爵が捕縛された直後に、恨みを持った何者かが放火して屋敷は半焼になったのだがな」
「ああ……ありましたね」
「取り壊されて、今は更地になっている。そうした因縁を気にしなければ、立地としてはこれ以上ない好条件だろう」
「今は使い道のない土地だ。借りるでも後払いで買い上げるでも、好きにしてよい。建物の建築費用は融資できるし、当初大仰なものが必要ないなら、裏庭の作業小屋を移動して始めてもよいのではないか。その売却費用も後払いでよい」
さらに畳みかけるように、王太子が補足する。
続けざまに提案される好条件に、唖然として父は僕の顔を覗いてきた。
「王宮側のご配慮が厚すぎて、何というか逆に恐ろしいのですが」
「みかえり、じょうほうをきたい、かな」
「何?」
僕の言葉に、父は軽く目を瞠ったが。
向かいで、王太子は苦笑を深めている。
「そういうことだ。製紙にしても印刷にしても、まだまだ新しい技術的な発展を考える余地があるのだろう?」
「ん」
「今のまま裏庭の小屋でその研究を続けさせるという考え方もあるが、王宮庁がいい顔をしないということもあるしな。さっきも言った、ルートルフに利益をもたらす、という都合もある。王宮側から便宜を図る分、これから開発された新技術もできるだけ広く公開していってもらいたい、ということだ。おそらくそれで、当初の投資以上に国家の利益になると予想される」
「なるほど、そういうことですか」
まだぎこちなく、父は頷いている。
「ふむ」と、横でエルツベルガー侯爵は顎髭を撫でていた。
「子爵にとっても、悪い話ではないのではないか。王都に一つ、影響力を持つということは」
「はあ、そうなのですが」
「経営を任せる者に心当たりがないということなら、知り合いを紹介してもよいぞ」
「ああ、それはありがたいです。その節には、ぜひ」
ちらり僕の顔を見て、頭を下げている。
もしこの話が具体化したとして、当然僕にもそのような人脈はないので、心強い申し出ではある。
侯爵家の人脈ならそうまちがいはないだろうし、こういう言い方をするときのこの人は、おそらく私欲を頭に置いていない。かなりの偏屈ではあるが、そういう点では信用できると思えるのだ。
聞いて、宰相も頷いていた。
「そういうことなら、それがいいのではないか。こちらからも心当たりを紹介できないものではないが、すでにその関係ではオリファー商会が動き出しているからな。そちらと繋がりのない方が、公平性があってよいだろう」
「は。前向きに検討させていただきます」
「エルツベルガー卿の心当たりというのは、身軽な人間かな」
「ふむ。さしあたって思い当たるのは、取り引きのある商会長の次男で、そこそこ実務経験があり、独立を志している者ですな。なかなか柔軟な考えを持ち、野心家のようだ」
「それを聞く限りでは、うってつけではないか。ベルシュマン、まずは本決まりとせずとも、その者を呼んで話をしてみてもいいのではないか」
「は。でしたら、そうしたいと思います。よろしくお願いいたします」
強ばった顔のまま、父は公爵と侯爵へ頭を下げていた。
話の進行上、もうほぼ断れない状況になっている。
どうも特に宰相にとって、王太子の意も汲んで、強引にでも進めたい案件となっているようだ。とすれば、その配下の子爵にとっては
「あってみる」と僕が頷くと、父も少し肩の力を抜いたようだ。
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