第2話 赤ん坊、執務室に入る
周囲の部屋と見た目変わりのない木の扉を、ヴァルターがノックする。
続いてすぐに開いたドアの中は、いかにもな執務室の様相だった。
正面奥、窓を背にして一組の大ぶりな机と椅子。その手前に、二人ずつが向かい合って座れる応接用の椅子とテーブル。
そのこちらを背にした応接椅子に、男性が一人座っている。
すぐに半分ドアの方を振り向いて、
「待たせやがって。そいつがその、赤ジャリか」
机の横、向かって左側の壁際には、大きな書棚。ほとんど空で、隅の方に木板の本が数冊重ね置きされている。
正面の机前に用意された椅子は特別仕様らしい座板が高いものになっているので、まちがいなく僕用に設えたものだろう。
向かって右横には、かなり小さめの机と素朴な見かけの椅子。こちらが文官用と思われる。
床の臙脂色の絨毯も調度類も辛うじて貴族用の外観だが、豪奢な印象はなくどちらかというと機能的に見えるのは、他の執務室と共通のものだろうか。以前入ったことのある父の仕事部屋と、大きな差は感じられない。
「おいこら、無視かよ、この赤ジャリ!」応接椅子の男は、さらに上体を捻ってこちらを睨みつけてきた。「赤ん坊のくせに、人の言葉を理解できていると聞いたぞ。あれはガセネタか?」
――ふむ。
こちらの顔を直視して憤っていることからすると、今の『赤ジャリ』なる呼称は、やっぱり僕に対するものらしい。
これまでの短い人生の中で、ついぞ聞いたことのない名称だけれど。
まあおそらくは、子どもに対する蔑称の『ジャリ』に赤ん坊の『赤』を乗せた安直な造語なのだろう。――ってまあ、真面目に分析するのも馬鹿らしい限りに思えるが。
「こら、何か答えたらどうだ!」
それこそ顔を赤くいきり立たせて、男は椅子の背板を叩いている。
赤茶の頭髪を長めに切りそろえた、おそらくは立ち上がるとヴァルターより縦横とも大きそうな体格で、十八歳と聞いた前情報に違わない見かけの男だ。体つきは推定年齢よりやや上、顔の表情だけならやや下、という平均をとるならの話だけど。
乗ったままの箱の中から、前に指を向けながら、僕は文官の顔を仰ぎ見た。
「あおがき?」
「何だと! 何だ、その呼び方は?」
即座に怒鳴り返す男の顔を見、腰下の僕の顔を見下ろし、ほとんど無表情のままヴァルターはまた男の顔に視線を戻した。
「おそらくは、『見た目大人のくせに中身は尻の青いお子様ではないかと推察される』という意味を込めた呼称ではないか、と愚考いたします」
僕としては、一見『青』年ふうの『餓鬼』のつもりだったんだけど。ただ『赤』との対比で思いついただけで。
まあもちろん、たいした違いではないので、訂正は加えない。
――と言うか、ヴァルターの解釈の方が、辛辣さを増してないか?
「そんな解説は、どうでもいいんだよ! 何だその、失礼な態度は? 男爵の息子の分際で!」
「きぞくのおうたい、しょうかいをうけてから、ときいたけど」
がなり立てには目を向けず、そのまま隣を見上げて問いかけた。
表情を変えない文官は、丁寧に一礼。
「申し訳ありません、不測の事態に、私の務めが遅れてしまいました。ゲーオルク様、こちらがベルシュマン男爵のご次男、ルートルフ様でございます。ルートルフ様、あちらがウェーベルン公爵家ご次男、ゲーオルク様です」
「へええ」と、わざと向こうに聞こえるかどうかぎりぎりの音量で嘆息して、僕は正面に向き直る。
「はじめまして、ルートルフでしゅ」
「やっぱり言葉を理解できてるんじゃないかよ! なら、今の態度は何なんだ? 男爵家のジャリが!」
「くにのしゃくいせいどに、ふまんでも?」
「そんなのと違うわ!」
一部ながら見せてもらった国の貴族に関する法令では、爵位間での階級差はあるにせよ、貴族全体では互いの立場を尊重する、ということになっている。爵位が上の者であっても、下の者に対する侮辱罪のようなものは存在する。
まあそんなもの、明文化はされていても実状としてはほとんど有名無実だろうけど。
それでも法令云々と言うより貴族社会の不文律、マナーとして、その辺は尊重されているはずで。少なくともよほどのことがない限り、貴族同士で面と向かって罵倒や侮蔑の言葉を投げるのは、非常識な振る舞いということになる。当然、貴族子弟もそれに準じる。
そういう理屈で反論しようかと、ふと頭をよぎったけれど。僕の現状の口回りで論じるのはかなり困難、と言うより面倒極まりない。ので、やめにする。
それでも、当の相手には伝わらないにせよ、隣の新側近にはある程度理解されたようで。
ちらり見上げると、若い文官は軽く肩をすくめてみせ、それから後ろを振り向いた。
「ああ済みません、お待たせしてしまったけど、荷物はそこの机に置いてください」
「はい」
戸口のすぐ外ですっかり忘れられていた二人の運搬人は、僕のわずかな荷物を大きな机まで運んでくれた。
それから、深く一礼をして立ち去っていく。
部屋の前で立ちん坊させられて不満もあるかもしれないが、彼らにもさすがに公爵次男の話の腰を折る度胸はなかっただろう。
そのままヴァルターは車を押して窓際まで進む。
大机の横で止めた車から僕を抱き上げ、専用椅子に座らせてくれた。
「こちらが、ルートルフ様のお席でございます」
「ん。どうも」
ちゃんと高さ調節はされたらしく、机の上に半身乗り出すようにすれば、読書や書き物はできそうだ。
ただそのため椅子の座面は高く、降りるだけでもかなりの勇気が要りそうだ。床からよじ登って自力で座るには、全体力を使っても無事果たせるか自信が持てない。
どちらも貴族らしく上品にというのはまったく不可能だろうから、少なくとも人目がある中では必ずヴァルターの手を借りる必要があるということになる。
「ふん、男爵家の赤ジャリには不相応な設えだな」
「(あおがき)」
「何を!」
聞こえるかどうか微妙、という音量調節した独り言に、見事なほど反応してくれる。
相手は公爵家なのだから、一応それなりに敬意を払う心積もりをしてはいたのだけど。初めて顔を合わすなり侮蔑されるというなら、配慮のつもりもない。
公爵家への無礼は後々自分のためにならない可能性はあるけれど、少なくとも現時点で、「一歳児が礼を尽くさない」という自分の方が笑いものになりかねない騒ぎ立てをするほど、この男が浅慮とは思えないし。
く、という短い破裂音に、隣を見上げると、文官が小さく肩を震わせていた。
「あ、いえ、ご無礼を。いえ、公爵ご子息閣下にはご自分のお部屋にもっと豪奢な席があるのですから、そちらにいらっしゃればよいのではないかと」
「何だと?」
「(ルートルフ様、閣下の言動は、あまり本気に受け止めなさらないようお勧めいたします。先ほどからの物言いは、喩えましたら初対面の犬猫が先んじて優位をとるべく威嚇して見せているようなものですから)」
「そ」
「こら、声を低めても聞こえているぞ! 失礼極まりない奴だな、いつ見てもお前は」
「決して、男爵位を侮蔑するなどの意図はございません。この方は、お父上の薫陶もあって、身分階級などより本人の人柄能力を重視して接する心構えの持ち主です。貴族でもない私のような者と、学院では他と変わらずつき合ってくださったくらいで」
「ふうん」
「こら、他人の陰口は、本人のいないところでやれ!」
つまり、二人は学院同級生としてからのつき合いだったらしい。
さっきから男爵家よりもさらに身分が低いはずのこの文官の言動に、妙に噛みつきが甘いと思えていた理由に、得心がいく。
事前に得ていた情報で、ヴァルターの家系は元を辿れば貴族の傍流らしいが今は平民で、代々貴族つきなどの文官勤めが多かったということだ。
貴族学院は名称通り貴族の子弟対象の教育機関だが、学力に秀でた平民の子を少数受け入れる特別枠がある。ヴァルターはその制度で入学を果たしたということらしい。
「まったく、この失礼な奴は」などと、さほど憤怒の様子もなく、公爵ご子息殿はぶつぶつ独りごちている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます