第3話 赤ん坊、王太子を迎える
それにしても、この好戦的な同僚と意思を交わすのはかなり難しそうだなあ、さてどうすべえ、と考えていると。
閉じた扉に、ノックの音がした。
返事を待たず開かれて、若い男が入ってくる。
「失礼するよ」
上機嫌そうな表情の、アルノルト王太子だ。
即座にゲーオルクとヴァルターは、床に片膝をつく。右手を胸に当てる目上への礼の形だ。
僕はと言うと、一人放置されて特別仕様に高い椅子から飛び降りるわけにもいかない。
しかたなく、椅子に座ったまま右手を胸に当て頭を下げる。
「これは王太子殿下、ようこそいらっしゃいました」
ゲーオルクが代表する形で挨拶したけれど。
そもそも椅子から飛び降りなければならない状況にあるという事情がなかったにしても、僕の口からこのような流暢な言い回しは出てこない。
それに加えて、床に片膝、胸に右手、という格好で
つまり、現状の僕に、王族に対する礼をとるなど無理難題なのだ。
――一歳児にそんなもの、求めないでくれ。
どう想像しても、大昔にこの世の儀礼を決めたお偉い方、それが赤ん坊に可能かどうかを考慮したとは、まず考えられない。
そんな僕にちらと視線を送り、残る二人を見回して、王太子は軽く肩をすくめた。
ゲーオルクの方へ掌を上向きに差し向けて、
「楽にしていいよ。と言うより、この部屋ではこうした儀礼は抜きということにしないか」
「儀礼抜き、ですか?」
「ああ。とにかく前例慣例は無視してでも早急に結果を出すことを目標に、立ち上げた部署なのだからね。そこらの呑気な貴族交際を倣って動いていては、目的が果たせない。何より、中心となるルートルフが前例踏襲不可能な存在なのだから。この部屋の中に限っては、とにかくルートルフが動きやすいことを大前提に考えていってもらいたい」
「はあ」
「特に、ゲーオルクとルートルフは立場が微妙かもしれないけどね。原則二人は対等な関係、いわゆるタメ口でやってくれ。ルートルフに余計な儀礼を求めて『~れしゅ』『~ましゅ』などという言い回しにいちいち引っかかっていたら、何も進展しない。私も言い出しっぺの手前、この部屋にはちょくちょく出入りさせてもらおうと思う。そのたびに今のような礼をさせて、執務の邪魔をするのは本意ではない。この部屋に限っては、学院でのつき合いに戻ったノリでいこうじゃないか」
「はあ、承知いたしました――と言うより、分かった。これでいいんだな?」
屈めた腰を伸ばしながら、ゲーオルクはにやりと笑う。
「ああ」と頷いて、王太子はそれまでゲーオルクがかけていた椅子に腰を下ろした。
ヴァルターが僕を抱き上げ、王太子の向かいに座らせる。
ゲーオルクは一脚椅子を動かし、僕らとは直角の向きに壁を背にして腰かけた。
僕の姿勢を整えて、ヴァルターは一礼して部屋を出ていく。
「うまいこと言っているが、つまるところ殿下は、この部屋に気楽に出入りして研究の真似事に加わりたいんでしょうが」
「まあ正直、それもあるな」
にやにや笑いで、二人は親しげな会話を始めている。
ちらちら顔を見比べて、その理由に合点がいく気がした。
「がくゆう?」
「ああ。このゲーオルクとは、学院の同級生でね」
「年齢は殿下の方が一つ下だけどな」
つまりは、ヴァルターも加えて三人、元同級生になるのか。
アルノルト王太子については、前に聞いたことがあった。
幼い頃から読書と『研究』と名のつくことが大好き、という王子だったという。
上に正妃腹の兄が二人いたので、自分が王位につく可能性は低い。それをいいことに、研究者の道を歩もう、と学院入学はるか前から考えていた。
そこに、予想外の事態が起きる。それぞれ三歳と一歳年上だった二人の兄が、相次いで疫病で命を落としたのだ。
自分の意志とは関係なく、王太子となる他ない。
そこは納得するしかなかったが、アルノルト王太子は帝王学を学ぶ傍ら、できる範囲で好きな研究を続けたい、という希望を出した。
まだ現国王も老いるには早いので、王位を継ぐまでにある程度は満足できる研究活動ができる見込みがある。
さらにその研究を少しでも早く始められるよう、貴族学院にふつうより一年早い入学を希望したという。
王太子の学究活動というのも別に悪いことではないので、これらはすべて認められた。本人の優秀さもあって、これまで文句なく研究と王族務めを両立してきているということだ。
「学院入学頃の一歳違いというと、心身ともにけっこうな差があるからね。父親が従兄弟同士で親戚としても親交のあったこのゲーオルクのお陰で、まあつつがなく学院生活を送れたわけだ」
「一歳下のくせして六年間ぶっちぎりで成績最優秀者を貫いた神童が、何言ってやがる」
王太子に対して不敬とも言えそうな会話の割り込みをして、ゲーオルクは肩をすくめた。
その目が次いで、ぎろりとこちらに流れる。
「この殿下の人当たりのいい笑顔に騙されるなよ。この御仁の
――知ってる。
「俺が学院で殿下と互角以上に対抗できたのは、体教の時間だけだ。それだって剣技については体力の不足を技術で補って、トップクラスの結果を続けていたんだから。学院の教師たちも、殿下の成績は王族だからという裏の配慮を考える必要さえまったくなかったと言ってるし、見ていた同級生たちも色眼鏡のつけようさえなかったろうさ」
「大げさだね、ゲーオルクは」
緩く笑って、王太子は両手の指を組み合わせている。
『人誑し』と評された笑みを、公爵次男と僕に順に回して、
「互角以上と言うが、剣技でゲーオルクに一本を入れられたのは一度もないだろう。他の科目でも、ぶっちぎりというのは言いすぎで、それぞれ優秀な者はいた。ここのヴァルターなんかも、算術と経済分野ではずいぶん試験結果を競い合ったものだよ」
「へええ」
「あいつはそういう、細かいところが得意だからな」
ゲーオルクが苦笑いで評するところへ、その本人が戻ってきた。
口から湯気の立つポットを携えていることからすると、どこかで湯を調達してきたようだ。
「失礼します」とこちら一同へ会釈して自分の机へ戻り、茶道具らしいものを揃え出している。
「皆様、紅茶でよろしいでしょうか」
「ああ、済まない」そちらへ頷き返して、王太子は僕を見た。「しかし、ルートルフは? 紅茶を飲んだりするのかな」
「のんだこと、ない」
何しろつい少し前まで、お乳しか口にしたことがなかったのだ。
屋敷でのティータイムにも、まともに参加した経験がない。
くわしい知識はないけれど、何となく赤ん坊の身体に余計な刺激物は避けた方がいい気がする。
「ぬるまゆ、がいい」
「はい、かしこまりました」
「ガキが」
このゲーオルクの悪態には、腹の立てようもない。
ガキ以前の乳幼児なのは誰の目にも明らか、論議の余地もないのだから、悪口にもなりようがない。
早い話が、謗言のつもりで口にするなら、発言者の方が恥をかくレベルと言える。
自分で言って気がついたか、その主は言葉を続けることをしなかった。
「どうぞ」
無表情のまま、ヴァルターは王太子と公爵次男にティーカップを運ぶ。
柔らかな赤橙色から、心落ち着く香気が昇ってくる。
それに続いて、同じ高級そうなカップに無色の湯を入れたものが僕の前に置かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます