第1話 赤ん坊、王宮に入る

 この瞬間から、僕は王宮の住人となる。


 執事長ウルリヒに抱かれて入口に歩み入ると、十人ほどの男女が整列し、礼をして迎えた。


「お帰りなさいませ」

「はい、ご苦労様です」


 慇懃な挨拶に、ウルリヒが足を止めず鷹揚に応えている。

 音声だけだとその挨拶が執事に向けられたのか僕に対するものなのか分からないのだけれど、使用人たちの整列のしかたが何となく王族貴族への応対用に見えるので、王宮入りする僕向けのものと思っていいのだろう。

 ただ、居並ぶ面々はほとんどが男性で、これも何となく階級や所属がまちまちという気がする。侍女らしい二人は、運んでいたらしい荷物を脇に抱えている。

 ということからしておそらく、この人たちは元からの予定で整列用意していたのではなく、付近に居合わせていた者が出迎えのために急遽並んだということなのだろう。

 僕としてもどういう態度をとるのが正解か分からず、執事の腕の中で軽く頷きと区別つかない会釈をする程度で、その出迎えの中を抜けていた。


 緑色を基調に赤や黄などで花を意匠化したらしい絨毯が敷き詰められた、廊下を進む。

 正面奥にその豪奢な絨毯のまま昇っていく階段が見えてきたが、そのしばらく手前でウルリヒの足は左へ曲がった。

 それまでよりはかなり落ち着いたモスグリーン単色のカーペットの廊下に入り、その先に何人かせわしげに歩く人の姿が見えてくる。おそらく、役所の実務エリアなのだろう。


「先ほどの廊下が後宮、これからルートルフ様がお住まいになる奥御殿に続いております。本日はこれからまず、執務に就いていただくお部屋へご案内いたします」

「ん」


 ちなみに、この僕の態度。

 兄やベティーナなど相手ならともかく、王宮の役人やこの年輩の執事長らに対して横柄に過ぎて、傲慢な赤ん坊だと思われてもしかたのないところだけど。とにかく今のところ口の回りが悪く発声が不自由なので、丁寧な応対は不可能ではないにしても苦痛だし手間がかかりすぎる。

 今国が抱えている問題に対して、時間の余裕がないということで王宮入りを請われているのだ。儀礼を優先した会話だけでも時間の無駄だし、そんなことでいちいちトラブルを生じていては期待されている役目を果たせない。

 この点は予め宰相から国王にも話を通してもらって、原則ルートルフには礼儀作法などの配慮は不要、という言質をいただいている。

 さすがに王族に対して礼の一つもなしというわけにはいかないだろうけど、とりあえず誰に対しても非礼に関するお咎めはなしということになっているのだ。

 少なくとも僕が接する可能性のある範囲にはその旨周知されているはずで、知らずに不快に思う相手がいたとしてもこちらの知ったことではない。


 やや細い通路から右に折れ、カーペットの続く階段を昇る。

 二階に上がったところに、若い男が立っていた。


――お。


 すぐ傍らに、一抱え以上に大きい木の箱のようなものを置いている。車輪が四つと持ち手がついていて、艶やかな黄色に塗られたそれは、イズベルガが話していた『赤ん坊車』というものだろう。中に柔らかそうな布類が敷かれているようだ。

 ウルリヒが上がりきったところで、その若い男は深い礼を向けてきた。


「ルートルフ様、こちらはヴァルターと申します。今後、ルートルフ様の実務を補助することになる文官です」

「ヴァルターです。ルートルフ様、よろしくお願いいたします」

「ん。よろしく」


 僕の応えに、ヴァルターは軽く目を瞠ったようだ。

 予備知識としては聞いているはずだが、やはり見た目明らかな一歳児が言葉で返答するのが驚きなのだろう。

 濃いめの灰色の髪を持つ青年は、事前に父から聞いていた通り、貴族学院を卒業して一年余りの十八歳、ということでまちがいないらしい外見だ。中肉中背、やや華奢かもしれない、といったいかにも文官らしい見た目と言える。


「本来文官の任ではないのでしょうが、執務時間中はお付きの者に代わって、ルートルフ様の身の周りのお世話はすべてこのヴァルターが受け持ちます」

「お任せください」

「よろしく」


 紹介を受けた後、ヴァルターはウルリヒから僕を受けとって、赤ん坊車の中に座らせた。

 すぐにその持ち手を握って、車を押し始める。


「では、ヴァルターはルートルフ様を執務室にお連れしてください。私は殿下に報告に参ります」

「承知いたしました」


 執事長は横手へ去り、車は正面へ向けて動き出す。

 ここまでついてきていた若い助手二人は、そのままこちらに荷物を運んでくれるようだ。

 赤ん坊車はすべて木製のようで、四輪の駆動がお世辞にも滑らかとは言えない感触だが、柔らかなカーペットの上の移動に関する限り、不快を覚えることもない。

 何枚も重ねられた布のクッションで、お尻が痛むということもなさそうだ。

 加えて、押し手の文官が最大限車輪の軋みを抑えるべく、ゆっくりの進行に配慮してくれているようでもある。


「本当にお年に似合わない見識をお持ちなのですね、ルートルフ様は」

「ん?」

「前もってお話は伺っておりましたが、初めてお目にかかって、その落ち着きよう、改めて感じ入っております」

「……そう?」


 ちらり、振り返り仰ぎ見ると。

 若い文官は細い目の表情を崩さず、真顔で称賛の言葉を口に昇らせているようだ。

 一応これから、僕の方が上司という立場になるわけだが。それを踏まえて先手を打ってのおべっか、というようでもない。

 しかしまだついさっき顔を合わせたばかり、僕の方はまともな言葉を口にしてさえいない。発言が本心だとしたら、ここでそういう判断を下すのは早計じゃないかい、と忠言したい気もするところだ。

 こちらの思いを知るべくもなく、そのまま青年の言葉は熱を帯びてきた。


「あの天然酵母パンというのも、ルートルフ様が開発されたと、聞き及んでおります」

「ああ……まあ」

「あれは、素晴らしい発明品です。私は幼少時より従来のパンのぼそぼそ感が苦手でして、周りの者たちの感覚とは裏腹に、そんなパンなどを食うぐらいならナガムギの粥の方がよほどマシだ、と思っていたのですが。新しく普及してきたパンは、まったくの別物です。私は、小麦の味の素晴らしさをこれで初めて知りました」

「……そう、なの?」

「ルートルフ様はまさに、私の食生活の救いの神であります!」

「……はあ」


 がたん、と車が軽く揺れ、僕は箱の縁に手をかけて身体を支えた。

 慌てた様子で、ヴァルターは押し手を緩めている。


「失礼しました、少し興奮が過ぎたようです。申し訳ありません」

「いや……」


 頭を下げる青年の表情自体には、さほど興奮の色は窺えない。

 どうも、面様と発言がはっきり同調シンクロしない性格らしい。


「こほん。改めて、説明いたします。今向かっているのは、今後ルートルフ様が執務にお使いいただけるように用意された個室でございます」

「ん」

「お聞き及びかもしれませんが、これからの執務にあたりましては、補助としてウェーベルン公爵ご次男のゲーオルク様と私がつきます。ただ今ゲーオルク様はお部屋でお待ちになっているはずです」

「ん」


 正直なところ、さしあたっていちばんの僕の不安は、この人物との付き合い方だった。

 ウェーベルン公爵次男のゲーオルク。

 人となりが分からない上に、お互いの立場が分かりにくい。

 公爵次男と男爵次男なのだから、元の身分は圧倒的にこちらが下だ。

 しかし僕が王族相当として扱われるとしたら、逆転してこちらが上になってしまう。

 それでなくともこれからの仕事の上で、こちらが上司とまではいかなくてもある程度対等以上でやりとりできないと、おそらく事は円滑に進まないはずなのだ。

 分かりやすく言えば、今までの僕の生活の中での兄に近い位置づけでいてもらわなければ。

 その辺りがどう受け入れられるかで、今後のあり方が決まってくる、気がする。


 そんな僕の思いを、知ってか知らずか。

 その後車は支障なく進行し、やがて一つの扉の前で静止した。

 護衛らしい二名の男が戸口脇に立っている。


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