第5話 赤ん坊、兄と遭う
今夜も『はいはい作戦』の続行。
シーツに肘を踏ん張って、全身を前方ににじり上げる。くり返し、くり返し。
そんなくり返しのうち、シーツがよじれ、滑り。僕はバランスを崩して、ベッドの脇に滑り落ちていた。
――失敗、失敗。
誰も見ていないのに、思わず照れ笑いをして。
四つん這いの自分の頭よりかなり高い、ベッド面をうーんと見上げる。
――上がれる、かな?
少しの間悩んで、どうせそんな苦労をするくらいなら、もっと思い切った冒険をしてやれ、という気になっていた。
秋深くに似合わず、何とも暖かさを感じる夜だ。家の中で凍えるということもないだろう。
ずりずりと匍匐前進で、ドアを目指す。
レバー型のドアノブは頭よりかなり上だが、以前から対策は考えていた。
こっそり隠していた布紐を取り出し、輪の形にした端を投げ上げて、ノブに引っかける。逆の端を引っ張ると、手入れのいいドアは軽やかに開いた。
わずかに開いた扉の板に四つん這いの肩をくじり入れ、開きを広げて暗い廊下へと這い出る。
臙脂色のカーペットが敷き詰められた廊下の床は冷たさもなく、ふわふわだった。
考えてみると僕は、部屋の外の床に足さえ触れたことがなかったのだ。
ふわふわの床を肘つきで踏ん張って、じりじりと進む。
そこそこ快調に、距離を稼ぐことはできている。
しかし。
思った以上の感触のよさに、僕は舞い上がっていたのかもしれない。
当初の予定では、ある程度進んだところで余裕を持って引き返すつもり、だったのだが。
気がついてみると、まずい状態だった。
赤ん坊の身体に限界近い疲労が回り、あまつさえ眠気が差してきている。
思い返してみると、ただでさえいつもの就寝時間を超え、しかもさっきまでベッドで十分運動をしていたのだ。
――赤ん坊の体力のなさを、甘く見ていた。
とろとろと、眠気が込み上げる。
ぼんやり目の前が霞み始めている。
その中で。
妙な気配を、僕は感じとっていた。
思えば今までにも何度か感じた、何かこちらを観察するような。
ほとんど暗闇の中、どこかに誰かが、いる。
どこだ?
進もうとしている先、階段の手前?
冷静に考えれば、警戒してしかるべきだったろう。
しかし半分眠りに落ちかけていた僕は、そんな心持ちも失ってしまっていた。
警戒、どころか。
かすかに鼻に染みる、香り。
どこか、懐かしいような。
心惹かれる、ような。
ずりずりと、ほとんど無意識のまま、這いを続け。
続け。
ふわふわと、手を伸ばす。
触れた、柔らかな、温かな、感触。
やっと、届いた。
「何だ、こいつ」
低い、震える声が落ちてきた。
「寄ってくるなよ、お前。お前なんか――」
決して優しい声ではない、のに。
警戒してしかるべき、なのに。
その温かみに両手を回して、僕の意識はゆっくり落ちていった。
「ええーーー? どうしたんですかあ、ウォルフ様あ?」
幸せな眠りを覚ましたのは、嫌というほど聞き覚えのある声だった。
「どうして、どうして、ルート様がここにいるんですかあ? どうして、どうしてえ?」
「うるさい」
素っ頓狂な問いかけ声を、不機嫌な低声が遮る。
「でもでもでも、ウォルフ様、ルート様に会わないようにしているんじゃなかったんですかあ? それなのにどうして、ルート様がウォルフ様のベッドの中にい?」
「こいつがひっついて離れないんだから、しかたないだろう」
ぴったり頬を寄せていた温もりが、ずり、と離れかける。
無意識のまま、放さじ、と両腕に力を込める。
離れかけていた細い腕が一瞬震え、それから脱力した。
「え、え? 離れないって?」
とろり瞼を上げると、ベッドの横に立つのは、予想通り目を丸くしたベティーナだった。
「夜中トイレに行った帰り、いきなりこいつが足に絡みついてきたんだ」
「え、え? だってルート様、まだはいはいもできないんですよ?」
「そんなの知るか。何か元気に、廊下を這って歩いてたぞ」
「えーーー?」
大きく、肺の中が空っぽになるのではないかという勢いで、ベティーナは息を吐き出した。
「それにしても、驚いたあ。いつものようにウォルフ様を起こしに来たら、ベッドの中にルート様がいるんですもん」
ぼんやり頭の目覚めを待ちながら、僕にも少しずつ事情が理解されてきた。
今僕がしっかり抱えている腕の主、ベティーナと同年配か少し上かに見える男の子。
深く考えなくても、この家のお坊ちゃま、つまり僕の兄上に当たるのだろう。
今まで僕がその存在を知らなかったというのも、妙と言えば妙な話だけど。
さっき話に出ていたけど、何か理由があってこの兄は、ことさら僕と顔を合わせないようにしていたらしい。
それに、僕がこれまで得ていたこの家に関する情報は、もっぱらベティーナを中心とした会話を聞きかじってのもの。
特にこちらに向かって説明されたわけでもなく、こちらから疑問点を問いかけるのでもないのだから、情報に偏りがあって当然だ。
まして家の中のこと、お互いに当たり前のことは特に名前を出して話題にするなどなく過ぎてしまう可能性、十分にあるだろう。
あるいはもしかして、今までの会話の中で『ウォルフ様』という名前は出ていたのかもしれないが、少し前まで『ルート様』さえ僕は認識できていなかったのだ。ただ聞き流されてしまっていたのかもしれない。
それにしても、初めて知った。
ベティーナって、毎朝僕の世話をしに来る前に、兄を起こす役目も果たしていたのか。
毎日それ以降はほとんど僕の傍を離れていないのだから、使用人が兄の世話をするのはこの起床時だけということになるのか。あとは放置? もちろん食事の給仕はランセルやウェスタがやっているのだろうけど、昼間、それ以外のことをしている様子は見受けられなかったと思う。
人手不足ということもあるのだろうけど、何だか兄とベティーナに申し訳ない気がしてきてしまう。
――手間のかかる赤ん坊で、ごめんなさい。
「分かったらこいつ、連れていってくれ」
「はいはい、分かりましたあ」
ベッドに寄ってきて、ベティーナはいかにも愉快そうな目で僕を覗き込んできた。
「それにしてもほんと、しっかりウォルフ様にひっついちゃって。やっぱりご兄弟なんですねえ」
「知るか」
「お母様の身を危険にした原因だからこいつとは関わらないって仰って、意地張ってらっしゃいましたけど、もういいんじゃありませんか? こないだも遠くから気にして見てらしたこと、ルート様も気がついていらっしゃったみたいですよ」
「うるさい」
なるほど、分かってきた。
僕を出産したことで、母が健康を害した。それが原因らしい。
それを言われると、原因となった当人として、どう償ってよいものやら困ってしまうわけだが。
とりあえず今は、母の快復を祈るばかりだ。
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