第6話 赤ん坊、兄を追う

 それとは別に、一つ気がついた事がある。

 さっきからのベティーナの話し方、他の誰と話すときよりも親しみが籠もっていないか?

 もしかしてこの兄とは、年が近い分昔から親しい、遊び相手だったとか?

 あり得る、気がする。


「あれ、あれ?」


 僕の腕に手をかけて、ベティーナは戸惑いの声を上げた。


「ルート様の手、離れませんよお。こんなしっかり何かに抱きつくの、初めて見ましたあ」

「何とかしろ」

「力いっぱいすれば何とかなるかもしれませんけどお、ルート様、泣き出しちゃうかも」

「……知るかよ、そんな」

「その、ウォルフ様、このままルート様のベッドまで運んであげていただけませんかあ。慣れたベッドでなら、安心して離れてくださるかも」

「マジかよ……」


 一度、白んだ目が睨み下ろして。


「しかたねえ、な」


 掴まれていない腕を僕のお尻に回して、兄は起き上がった。


「すみませーん」


 ちっとも恐縮の色もなく、歌うような口調でベティーナは後についてきた。

 廊下に出て、二つ隣のドア。見慣れた自分のベッドに、やや乱暴に僕は下ろされた。


「ほら、眠たいんならここで寝直せ」

「うう……」


 兄の腕を握ったまま、上目遣いにその不機嫌満開の顔を覗き上げる。


「まだお相手してほしいみたいですねえ」

「マジかよ」


 ベティーナの顔を、兄は噛みつきそうな表情で睨み返した。


「俺は朝食をとって、自分の日課をこなさなきゃならないんだ。お前の相手などしている暇はない」


 こちらに向き直って、改めて睨みつけてくる。

 あえて空気は読まず、僕はそれにまた上目遣いを返した。


「にい、ちゃ……」

「は?」


「わああーー」

 とたん、ベティーナは両手万歳をしていた。

「聞きました? 『兄様』って。ルート様、分かってらっしゃるんですよ、お兄様を」

「そ、そ……」


 子守り少女の満開笑顔の横で、兄の顔は真っ赤になっていた。


「そんな、知るか! 日課の間は相手できないからな! 赤ん坊はここで大人しくしてろ!」


 小さな手を振り払って、赤い顔のまま兄は睨み返してくる。


――日課の後なら、いいのかな?


 首を傾げて、見返す。

 同じことを思ったらしく、ベティーナはくすくす笑いになっていた。


「とにかく、飯だ。朝飯!」


 ずかずかと、兄は乱暴な足どりで部屋を出ていった。


 残ったベティーナは、くすくすが止まらないまま、僕の着替えに手を伸ばしてきた。


「ウォルフ様は午前中は家庭教師の先生とお勉強ですから、ほんと忙しいんですよお」

「…………」


――勉強、か。


 興味惹かれる、気がする。


 兄と、関わりを続けたい。

 それは、ここに生まれて初めてと思えるほどの肉親の情みたいな感覚によるところが、大きい。

 しかしそれに加えて、勘のようなものが告げているのだった。

 ずっと僕が求めていた情報が、兄の近くにいれば得られるのではないか、という。

 家族に関することも、領地に関することも、おそらく領主の跡継ぎという予定になっているのだろう、兄のもとになら、ある程度集まってくるのではないか。


――あの兄上、長男だよね?


 その点、確かな情報として証明を得ていないけど。

 まさかあの若く見える母に、さらに上の子どもがいるとは思えない。

 推定十歳前後と思われる兄にしても、あの母が産んだとは信じられないくらいだ。

 今でも二十歳を超えているとは思えない外見なんだけど、いったいあの人、何歳で出産したんだ?


 後日得た情報では、母は現在二十六歳、兄は十五歳のときの初出産ということだった。

 なお、兄と僕の間はかなり離れているわけだが、間に一人の死産を挟んで僕は第二子、まちがいなく次男ということになるようだ。


 兄が出ていってから一刻(約三十分)あまり後、乳母のウェスタが上がってきて、僕の朝食となった。

 だいたい毎日同じスケジュールなわけだけど、今にして思えばウェスタが兄の朝食の世話を終えてから来る都合でこうなっているのかもしれない。

 それが終わると、改めてベティーナは僕の服装を整えてくれた。


――兄上は、勉強の時間と言ってたな。


 思って、ベティーナに抱き上げられた格好でその腕をぱふぱふと叩いた。

 最近ではこれで通じる、家の中を歩き回りたい、という意思表示だ。

 ただ、こんな午前の早いうちに散策をしたことはないので、ベティーナは戸惑いの顔を見せた。


「えと……もう少しお部屋でのんびりしませんかあ。ウォルフ様のお勉強の邪魔したら、怒られますよお」


――赤ん坊にそんなこと言っても、通じませんよー。


 ぱふぱふ。

 ベティーナの言い聞かせの努力に、何度もぱふぱふ攻撃を返す。終いには、子守りも根負けしてくれた。


「絶対、邪魔しちゃダメなんですからねえ」


 ぶつぶつ愚痴りながら、僕を抱いて階段を降りていく。

 降りた左側が、いちばん訪問頻度の高いキッチンと食堂。右側はあまり行ったことがないが、玄関ホールを挟んだ向こうの部屋のドアが開いたままで、兄と見知らぬ男性が向かい合って座っているのが見えた。

 左へ行こうとするベティーナの腕をぱふぱふして止める。


――右、右。


 無言の訴えの意味は通じたようだが、ベティーナは苦い顔になった。


「ダメですったら、勉強の邪魔しちゃ」


――見るだけ、見るだけ。


 数十秒の攻防の末、ベティーナははああと溜息をついた。


「ちょっと見るだけですよお」


――勝った。


 心の中で、ガッツポーズ。

 ただこれ、僕がふつうの赤ん坊だったら、こんなところで子守りが譲ることは決してなかっただろう。少なくともこの意識を持ってからの十日あまり、人に迷惑をかけるような騒ぎ方を一度もしていない実績を積んだ上での、信用によるものだ。

 本当に僕が勉強の邪魔をするとは思っていない。ベティーナの心配は、兄か家庭教師の先生かが嫌な顔をするかもしれないという点だけのはずだ。


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