第16話 赤ん坊、呼ばれる

 帰りの馬車の中では、一仕事終えてほっとした母親たちの和やかな会話が続いていた。


「うちの子もルートルフ様と同じ『光』だなんて、光栄さね。村の役にも立てるし、嬉しい限りさ」

「そういう意味じゃ、羨ましいぐらいさあ。でもさ、そうやって『光』を喜べるのって、ウォルフ様が村に役立てるようにしてくれたからさね。うちの上の子の周年式のときは、『光』の子の親は何となく静かになっちゃってたもの」

「ああ、そうさね。ウォルフ様に感謝だ。ありがとうございます」

「いや」


 母親に頭を下げられて、兄は苦笑になってしまっている。

 それに笑って、ウェスタが口を入れた。


「うちの娘はただでさえお転婆なのに、『火』ときたら躾がますます大変そうだよ。分別つかないうちにやたらと使わないようにって、躾に苦労するっていうよねえ」

「ああ、そうそう。上の子のとき、苦労したもんさ。まあ、三歳ぐらいまでにしっかり言い聞かせれば、あとは大丈夫さね」


 そんなやりとりが交わされている中で。

 母親の心配をよそに、カーリンはすっかり元気になっていた。

 僕と並んで座席に座らされて、しきりとじゃれついてくる。僕も往きの行程より目が冴えていて、座ったままの相撲よろしく、押したり引いたりにつき合っていた。

 きゃきゃきゃきゃ、とカーリンの口にご機嫌の声が漏れる。

 もしかすると、久しぶりにミリッツァ抜きで僕を独占して遊べるのが、嬉しいのかもしれない。

 それにしても、気になってしまう。


――ミリッツァは、どうしているだろう。


 まちがいなく、朝の起床時はところ構わず泣き喚き続けていたことだろう。

 その後、泣き疲れて。諦めて僕の不在を受け入れるまで、どれだけかかっただろうか。

 今頃少しは落ち着いて、ベティーナやザムと遊んでいてくれればいいのだが。


 すっかり日が傾いた頃、領主邸に帰着した。

 二組の母子を帰し、ヘンリックが戸口を開く。


「ただいま、戻りました」


 続いて僕を抱いた兄が家に入ると、


「ひぎゃあああああーーー」


 居間の方から、大音響の炸裂が聞こえてきた。

 つんのめるように、ベティーナが姿を見せる。

 腕に抱いた赤ん坊が暴れ乗り出して、抑えきれず前向きに転がりそうな勢いで。


「ちょちょちょ――待ってください、ミリッツァ様あ」

「ひぎゃあああああーーー」


 ついにはバランスをとりきれず、子守りはホールの中程で膝をついてしまった。

 その腕をするり抜け出して、ばたばたばたと、ミリッツァは玄関に向けてはいはい殺到してきた。

 慌てて、兄が僕を床に下ろす。

 その両脚に、強烈なタックルがかまされる。

 堪らず尻餅をつきながら、何とか僕は腹の上に妹を抱き留めた。


「ふぎゃ、ぎゃ――るーた、るーた――」

「へ?」

「るーた、るーた――」


――るーた?


 泣き声だけでない、意味のある言葉を、初めてミリッツァの口から聞いた、気がする。

 慌てて僕の背を支えていた兄も、唖然とした声を漏らしていた。


「お前を、呼んでいるな」

「ん」

「ミリッツァ様、喋った。ルート様を呼んでるですう」


 転がるように駆け寄ってきたベティーナが、雄叫びを上げた。

 僕の胸に涙顔を擦りつけ、ぐしゅぐしゅと声を籠もらせ、強くもない腕の力一杯にすがりつき。

 さらに数度、「るー、るー」という声が僕の上着に染みてきた。

 思わず、その頭を撫で宥めてやっていると、少しずつ震えが緩み力が抜けてくる。

 やがてぶるっとひと震え、涙に濡れた赤い顔が、起こされた。


「るーた……」


 その顔を、どう表現したらいいのだろう。

 涙と鼻水にまみれ、真っ赤な。

 まちがっても器量がいいとか、いい見た目とか、形容などできない。

 しかしそのまま、にっこり泣き笑いを向けてきたその顔を。

 僕は、この世でいちばん可愛い、と思ってしまったのだ。

 この子は、僕を求めている。

 毛布とかぬいぐるみとかの替わりでなく、一人の人間としての僕を。

 何と言うか――うん、そんな思いに駆られてしまった、のだ。


 ふうう、と溜息をついて。苦労しながら、兄は僕とミリッツァをまとめて抱き上げた。

 そのまま、数名の顔が覗く居間の戸口へ歩み寄る。


「母上、ただいま帰りました」

「はい、お帰りなさい」


 兄の腕の中でもつれ合う赤ん坊二人を見て、母も苦笑するしかないようだった。


 ソファに収まると、お出かけ組の話より先に、ベティーナから留守番の報告を聞くことになった。

 簡単に言うとミリッツァは、朝目覚めてから今まで泣きっ放しだったらしい。

 全身全霊で泣き声を張り上げ続け、泣き疲れて眠る。短い眠りから目覚めてはまた泣き叫ぶ。

 ベティーナが抱き歩いても、ザムにおんまさせても、泣き止まない。両手両足をばたばた、天井を向いて泣き叫び続ける。

 涙にまみれて、さっきは三度目のうたた寝に落ちていたところだった。

 僕らの帰宅を知って、ベティーナは「さあ、お帰りですよ」と安堵して抱き上げた。

 その直後、さっきの狂態に至った、らしい。


「力及ばず、申し訳ないですう」

「やっぱりまだ、ルートルフ様から離すことはできないようですね」


 肩をすぼめるベティーナを慰めて、イズベルガが苦笑した。

 母も複雑な顔で、静かに頷いている。

 とにかくもソファの上で僕の胸に顔を埋めて大人しくなったミリッツァに、みんな安堵の様子だ。

 脇で丸まったザムの顔さえ、疲れ切って脱力したように見える。

 比べて、周年式の報告は、とりたてて何ということもない。無事終了しました、というだけだ。


「ルートの加護は『光』でした」

「わあ、そうなんですねえ」


 兄とベティーナの反応が『初めて聞いた』とばかり装っているのが、僕個人には少し可笑しい。


「ルートルフもカーリンも、生まれて初めての大切なお務め、ご苦労様でした」


 母が締めてくれたけど。この半年程度にいろいろなことがありすぎて、僕には『初めての大切なお務め』という実感があまりない。

 母に知られるわけにはいかない話ではあるが、加護もさんざん使ってしまっていたことだし。

 それより。胸にへばりつく妹の感触が心地よく馴染み始めてはいる反面、ここで母の抱擁が受けられないのは何となく寂しい、という気になっていた。しかたないけど。


 なおその後数日で、ミリッツァは急激な勢いで言葉を覚えていた。

「かーりん」「べてぃー」と、すぐ傍の二人の呼び方はすぐ定着。

 ランセルの庖丁やテティスの剣を見せて「いたいいたい」だから触らない、とベティーナが教えると、すぐそれをくり返すようになる。

 兄のことは、僕の言い方を真似たらしい。「にーた」という呼び方になっていた。

 瞬く間にカーリンと同レベルの言語能力、表面上僕を追い越しそうな勢いになっていた。


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