第15話 赤ん坊、周年式に出る
五の月が始まっている。
我が家というかこの村でのさしあたっての大きな行事は、周年式だ。ロルツィング侯爵領の教会に一の土の日に予約を入れているので、もう三日後に迫っている。
この日参加する一歳児は、僕とカーリン、村の二人の計四名。他の三人は母親が付き添うが、僕の付き添いは兄の予定。統括としてヘンリックが率いて、全員まとめて馬車で移動することになっている。
ちなみにこれも、ぜひとも父が僕の付き添いを務めたいと主張していたらしいが、王都の職務が詰まっているため断念した。というか、させられた、ということだ。
五の月末には王都で毎年建国記念祭が行われ、父はその運営担当になっているらしいのだ。そりゃ、今月いっぱいは激務に追われて当然だろうなあ。
というわけで、前述の面子で三日後、日帰り移動が行われる。教会のある侯爵領の領都にあたる街までここから馬車で片道十刻ほどかかるので、早朝、日が昇る前後の午前一刻に出発し、夕方、夜の一刻頃に帰還の予定になっている。
天気が悪くならない限り、余裕のスケジュールだ。
ただ一つ、ここに来て問題が持ち上がっている。
ミリッツァだ。
未だに僕の姿が視野に入っていないと泣き叫び止まないこの妹が、ほぼ日中を通しての留守番に堪えられるか。
馬車で一緒に連れていくこと自体は、不可能ではない。
しかしほぼ四刻近くかかるらしい教会の神事に、本人と付き添い以外、それも一歳に満たない子どもが入ることは厳に禁じられている。
ということは、もし連れていってもミリッツァは、教会に入れてもらえずその入口前で泣き叫ぶことになるのだ。
同じ泣き叫びを宥めるなら、家に留めてベティーナとザムに任せる方がまだいい。少なくとも、近所迷惑にならないという意味で。
というわけで当日のミリッツァの処遇は、家に置いていく、その一択になる。
どんな事態になるか、想像もできない。ベティーナは今から、顔面蒼白だ。
――……頑張ってもらうしかない。
二日後、ということは当日の前夜。
しっかり準備を整えて、僕とカーリンはいつもより早い就寝。
一方ミリッツァは、僕が寝る横でベティーナとザムを相手に遊ばされていた。
いつも以上に一人特別扱いで、ベティーナに抱き歩かれ、ザムのおんまに乗せられ、しきりと両手両足を振り振り、運動させられる。
つまりは夜更かし、疲れ果てるまで遊ばせて、朝寝坊をさせようという作戦だ。
傍で遊び騒がれていては僕もなかなか寝つけないわけだけど、まあ移動の馬車の中でいくらでも眠れるので、問題はない。
きゃっきゃと妹がはしゃぐ声を聞きながら、いつか僕は眠りに落ちていた。
朝、そっと揺り起こされる。
いつもの通り背中には小さな温かみが密着して、左肩はよだれでぐっしょり濡れている。
そのしがみつきから、そっとずれ逃れて。
「さあルート様、お支度しますよお」
なかなか聞きとれないほどの囁きで、ベティーナは僕の着替えを始める。
ちらちらとベッドに気遣いの視線を流して、
「うう……ミリッツァ様、可愛い寝顔ですう……」
その声が情けなく震えているのは、目覚めた後の事態を想像してのことだろう。
まだ外もようやく白み始めた程度の暗さの中で、着替え終わり。
僕はベティーナの手から廊下の兄に渡された。
軽く朝食、準備を終えて。
ウェスタとカーリンとともに外へ出ると、村の二組の母子も準備万端で集まっていた。
天気もまずまず、初夏を思わせる爽やかな朝だ。
全員馬車に乗り、ヘンリックの御者で出発する。両脇に、テティスとウィクトルが護衛についている。
馬車の中では、二人の母親がしきりと、領主の息子との同乗を恐縮していたが、
「これはベルシュマン男爵領の伝統だからな。もちろん自分では覚えていないが、俺も十年前にはアヒムやリヌスたちと一緒に連れていかれたらしい」
と、兄が笑い返していた。
すぐに母親たちも寛いで、ウェスタを加えてこの一年の子どもの成長についての話に花を咲かせていた。
僕も含めて子どもたちは、いつも以上の早起きのため、付き添いの膝の上でうつらうつらしているばかりだ。
二刻ほど経って、前のヘンリックから「侯爵領に入ります」と声がかかった。
他の子どもたちもそうだろうが僕にとっては初めての遠出、領を出るのは完全に初体験だ。
前に賊に攫われたときはたぶんこの近くまで連れてこられたはずだが、侯爵領に入る手前だったと聞いている。
窓の外は晴天で、両側に爽やかな緑が続いている。
ひょいと、兄が膝の上に立たせてくれた。
「侯爵領に入ったら間もなく、綺麗な湖が見えてくるんだぞ」
「今の季節は、景色も格別ですよね」
ウェスタも倣って、カーリンを立たせて窓外を見せていた。二人の母親も同様に子どもを起こす。
すぐに、木々の緑の隙間に青緑の水面が見えてきた。多少色の深さは異なるが、左右両側に、だ。
そう言えばこの辺り、二つの湖が迫っている間を抜けるのだと聞いたことがあった。
深い水の青みに跳ねるように、いくつも白っぽい鳥が羽ばたいている。餌になる魚も多いのだろうか、と思う。
湖の脇を抜けると、両側に畑が多く見えるようになってきた。まだ春のうちで作物も植えて間もないのだろうが、うちの領地に比べてはっきり緑の成長が見えている。
やはり南に来ているのだと、実感させられるようだ。
そんな畑や林やの間を辿り、街道を進む。進むにつれ、すれ違う馬車や人の姿が増えてきた。
いくつかの集落を抜けるうち、徐々にその規模が大きくなってきている気がする。
そしてまた、しばらく進み。
「デルツの街です」
領主邸のある、つまり侯爵領の領都にあたる街らしい。王都より北では最大の街で、馬車で我が領地に来る際にはたいていここで一泊、ということになるようだ。
時間があれば買い物などを楽しみたいところだろうが、今日は街に入ってすぐの場所にある教会だけが目的だ。
ここまで来るのは兄が自分の周年式を除けば王都に往復した一度だけ、母親の一人は初めて、もう一人とウェスタは過去二回だけ、と話している。
とにかくうちの領の人々は、外へ出ることが少ないのだ。定期的な交通機関はないし、旅行などをする金銭的余裕もない、という理由もあるだろう。
最初は馬車の側面の窓からはたいしたものが見えなかったが、見る見るうちに人家が増え、道のすぐ傍まで建ち並ぶようになってきた。街には特に防壁などの囲いもなく、いつの間にかその中に入っていたようだ。
やがて街道から横に外れ、すぐに馬車は止まった。
中央にやや高い塔がある、いかにも宗教的な建物のある敷地に入っている。
塔の上の方には鐘が吊されているようだ。そう言えば、日に三度教会で鐘が鳴らされる、と聞いた気がする。
馬車を降りて、ヘンリックを先頭に教会の中に入る。護衛二人は外で待つようだ。
中は、百人程度が座れそうな机と椅子が並んだ礼拝堂になっていた。
三人ずつが並んで座る席の最前列に、今日は四組の子どもと付き添いが二組ずつ着席する。
一体の神像を飾った祭壇の前の演台に一人の神官らしい中年男性が進み出て、式が始まる。
結論を言うと。ただただ、この神官の話が長かった。たぶん、二刻を超えていたと思う。
胸の前で両手を組むポーズを全員――赤子を除く――でとり、神に祈る。あとは神への感謝、ほとんど意味のとれない言語が延々と続く。
『まるでお経のような』という言葉が頭の中に聞こえたが、意味分からん。
事前に兄から聞いていた情報によれば、『ナトナ』という一神をひたすら敬うものらしい。
あまりに長いので、当然のように子どもたちから「だあー」「やあー」と不満の声が漏れ始める。一歳児が主役だということ、教会はちゃんと認識しているのだろうか。
まあ一応は空気の読めるいい子ばかりで、場を台無しにする号泣は始まらなかった。
僕もとりあえずのところは妙に思われないように、何度か「だああー」という声を漏らしてみた。兄には微妙な横目で見られたけど、知らん。
そのうち、唐突に意味の分かる言葉「ルートルフ、カーリン……」という並びが聞こえてきたのは、おそらく子どもの行く末を祝福しているのだろう。
予想通り「この子たちの誕生を喜び、幸あれかしと祈る」というような言葉があり、間もなく祈りは終わった。
次に、名前が呼ばれて一人ずつ、付き添いに抱かれた子どもが演台に上る。
用意されていた花のような意匠に縁取られた丸い器具に、手を触れさせられる。
僕の手が触れると間もなく、ぽうっと器具は黄色く光った。
「『光』のご加護がございます。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
神官の言葉に、兄は頭を下げた。
兄が演台を降り、それが順に続く。
カーリンの加護は『火』、あとの二人は『光』と『水』だった。
四人の加護の確認が終わると席へ戻り、神官が立ち去る。
代わってヘンリックが立ってきて羊皮紙を広げ、それぞれ子どもと親の名前、性別、誕生日などを付き添いに確認しながらペンで記入していく。これが戸籍に当たるものなのだろう。
以上で、式次第は終了した。
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