第17話 赤ん坊、旅に出る
五の月の二の土の日、僕はまた兄の膝に乗せられて馬車の中にいた。
御者も同じく、ヘンリック。車両の両脇に二人の騎乗した護衛。ただ同乗者は変わって、珍しくおめかししたベティーナが膝にミリッツァを抱いている。
僕にとって生まれて初めての外泊を伴う、最低一泊二日予定の遠出をすることになった、その始まりは四日前に遡る。
夕食後、僕を抱いた兄は、母と向かい合ったソファに呼ばれた。
この日着いた、父からの手紙の内容について説明があるのだという。
「ウォルフから父上に、アマカブの件についてエルツベルガー侯爵領と協力したい、と提案を送ったそうですね。それについてのお返事なのです」
「はい」
「ウォルフの提案はもっともだということで、王都でエルツベルガー侯爵と話し合いをしたい、と申し入れたというのですが、侯爵はしばらく王都を離れて領地へ戻っているようなのです」
「……はい」
兄の相鎚がやや歯切れ悪くなっているのは、僕と同じ困惑を覚えてだと思う。
この用件で母から話がされる、理由が分からないのだ。
父からの便り、特にこうした領地の産業に関わることの伝達なら、ほぼまちがいなくヘンリックから伝えられるのが常だ。
「そのため、両領地の農業に関わる情報交換の用件で話したいので、と王都の侯爵邸を通じて連絡してもらいました。しかし侯爵はしばらく王都に戻らない、父上はしばらく王都を離れられない、と予定がかみ合わないことになりました。できれば今年の農業生産に間に合わせるようにしたいと伝えたところ、噂通りその辺りの発想が長男から出ているというのが事実なら、直接その長男を領地に招いて話をしたい、という返事があったというのです」
「ああ……はい」
「ウォルフは、初対面の侯爵を相手に、この件の交渉ができますか。もちろん、補佐としてヘンリックについてもらいますが」
「できると思――いえ、できます」
「そうですか。頼もしい」
「では母上、私がヘンリックとともに侯爵領へ赴いて、話をしてくればよいのですね?」
「そうです。エルツベルガー侯爵はそこそこ利に聡い人ですし、あなたと父上の考えている国全体の利益を目指すという話も、ちゃんと説明すれば理解を得る可能性は十分にあると思います。ただ、一つだけ問題があるのです」
「何でしょう」
「侯爵は、ベルシュマン男爵家に個人的な遺恨を持っているのです。――娘を、駆け落ちの形で奪われたと」
「……はあ?」
――はあ?
「――つまり、エルツベルガー侯爵は、母上の父親ということですか?」
「そうなりますね」
「つまり、私たちの祖父?」
「当然、そうなります」
――衝撃の、事実。
そう話す母の顔は、困惑半分、苦笑半分――どこか、照れのようなものも混じっているだろうか、に見える。
「もったいないのと恥ずかしいのとで、あまりくわしくは言いませんけれどね。十四年ほど前になりますか。母はお忍びで王都を歩いている際、暴漢に襲われて危ういところを二人連れの男性に救われました。まあ、その……つまり、父上とロータルですね。実際腕を振るって助けてくれたのはロータルなわけですけれど。……まあその後、いろいろ紆余曲折ありまして、身分の低い男爵家への輿入れを父に猛反対されて、イズベルガだけを連れてこの領地まで押しかけるに至ったわけです」
――母上、省略のしすぎで、ただただ無謀なだけに聞こえます。
……王都からここまで女二人旅って、危険極まりないのでは?
「そんな実力行使を受けて、侯爵は公式的にはこの婚姻を認めたのですけどね。私的には完全に交流を断つ、と宣言をして、今に至るというわけです」
「……はあ」
「説明は以上です」
「――つまり私は、交流断絶を宣言している祖父を相手に、農業協力の交渉をしなければならないわけですか」
「そうなりますね」
「はあ……」
「侯爵からは、長男の人となりを見て判断したい、加えて次男も同伴せよ、ただし母親の同伴は断る、という要求だそうです。少なくとも、実の孫であるあなたたちに興味を抱いているのは、まちがいないでしょう」
「ここまで聞く限り、かなりの頑固爺様、という印象を抱くのですけど」
「そう思って、まちがいないでしょう。頑固さだけならこの国の貴族で太刀打ちできる者はいない、と王都で評価をいただいているそうです」
「……あまり嬉しくない評価ですね」
「まったくです。いったい誰に似たものやら」
誰から受け継いだかは知らないが、そこで実力行使を断行する娘にその一端が受け継がれていることは、想像に難くない気がする。
「領内でも個人の実力重視の人事を行うことで有名な人ですから、孫といえど、いえ、だからこそ、本人の人間性や能力を見られると思っておきなさい」
「……はい」
頑張ってね、と兄に励ましを贈ろうとして、思い出した。
――さっき、『次男も同伴』って、言ってなかったか?
「分かりました、行って参ります。ヘンリックとルートルフを連れて、ということになりますね。――しかし、ルートを連れていくとなると、ミリッツァを置いていくわけには……」
「いかない、ということになりそうですね、先日の様子では」
「……ミリッツァとベティーナを、同伴します」
「そうしてください。たいへんとは思いますけど」
「はい」
エルツベルガー侯爵領の領都までは、街道をロルツィング侯爵領へ入って間もなく東へ折れる行程で、馬車で二十刻程度、早朝出発すれば夕方には着く道のりだという。
先方が招いた以上、一泊の世話はするだろうから、早くて翌日の夜に帰還という予定になる。
ふつうに友好的に貴族の子息を歓待するなら、二泊は見ることになりそうだが。
そんなことをヘンリックも交えて相談しながら、兄はふと気がついたふうで、母に訊ねた。
「そう言えば、ミリッツァを連れていくというのは、大丈夫でしょうか。父に好意を持っていない、いわゆる舅ということになるのですよね、侯爵に悪印象を持たれるのでは」
「狭量な舅なら、粗探しの難癖をつけてくるかもしれませんね。しかし貴族が側室の子を設けるのは常識ですし、家の将来を考えればむしろ推奨されることです。相手がそんな懐の狭い了見なら、農業協力など持ちかける価値もありません。席を蹴って帰ってきて構いませんよ」
「はあ……」
ふだんはおっとりとした母が、実家が絡むとかなり好戦的な態度になるようだ。
言葉と裏腹に顔はにこにこと微笑を湛えているのが、なかなかに怖い。
「どんな結果になろうとも、母はウォルフを支持しています。父上もこの辺の説明と判断はすべてわたしに任すとの仰せです。あとのことは気にせず、思い切りやってきなさい。命をとられることだけは絶対ありません」
「……はい」
事前情報として。
母の母親である侯爵の第一夫人は、十六年前に死亡している。母の同腹の兄弟は、兄と姉が一人ずつ。第二夫人の子が弟と妹一人ずついたが、その後は知らないという。
兄は当然次期領主の予定で、すでに事実上領地経営に携わっているらしい。
姉は何と、現王の第二夫人として王宮入りしていて、第一子が王の長男で王太子になっているという。
――つまり、僕らの従兄が王太子?
初耳情報としては、なかなかに衝撃的な。
父方の親族はほぼすべて死別、と聞いていたが。母方の方はなかなか華やかなようだ。
まあ王族の方は今考えてもしかたないので、脇に置くとして。
母の兄、つまり伯父が次期領主で領地経営に携わっているということは、今回の兄の交渉相手は祖父と伯父、ということになりそうだ。
ヘンリックからミリッツァとともに同伴させることを告げられると、ベティーナは興奮と緊張で我を失いかけた様子になっていた。
僕と同様に宿泊を伴う旅行の経験もなければ、主より格上の貴族のもとを訪問したこともないという。
しかも立場はヘンリックに次ぐほとんど使用人の代表のようなもので、旅行中は主筋の三人の身の周りの世話を一手に引き受けることになる。まだ幼い彼女にとって、生まれて初めての大役なのだ。
ほとんど蒼白になりながら子ども三人と自分の準備を整え、まだ夜が明けきらない中、馬車に乗り込むことになった。
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