第62話 赤ん坊、待つ

 父とディモが話す横で。

 髭面の騎士団長は、しきりと首を捻っていた。


「それにしてもここのオオカミ、平和的に過ぎる気がするな。何頭も気配はするのに危険は感じないなど、ちょっとあり得ない状況ですぞ」

「そうなのですか」


 父は相槌を打っているが、説明を求められても誰にも返答はできそうにない。

 僕と兄にとって「監禁から解放された恩義を覚えているのか」という予測程度はできなくもないのだが、それだって何の根拠もないのだ。

 ザムにならもしかすると何か分かっているのかもしれないが、そんな問答をするすべもない。

 そのザムは、正面の洞窟方向には興味を失ったように、右手の森奥地側に顔を向けている。

 その喉元に「ウウ」という唸りが漏れて、慌てて兄は隣を見た。


「どうした、ザム?」

「ウウ……」


 耳を澄まし、風の匂いでも嗅ぐ仕草。

 それからザムは、兄の袖口を咥えて引っ張った。


「何だ、おい」


 袖を引かれて、たたらを踏む。兄と僕を乗せて軽々と疾走する大きさになっているザムの力は、子どもではそうそう抗いようがない。

 いつになく強引に兄を拉致しようとするザムの様子に、居合わせた大人たちが慌て出した。


「おいウォルフ、どこへ行く?」

「そちらにはオオカミが潜んでいるかもしれません、危険です」


 駆け寄りザムを静止しようとするウィクトルの手を、兄は止めた。


「オオカミが潜むなど危険のあるところへザムが連れていこうとするなど、絶対にない。何か我々にとって大事なものが、そっちにあるのだと思う」

「しかし……」


 父と騎士団長も、判断に窮して顔を見合わせている。


「父上、先日そのオオカミたちが封じこめられていた場所へ案内したときと、ザムの様子が似ています。同じような何かを教えたいのだと思います」

「……そうか。それなら、行ってみよう」


 騎士団長と頷き合って、父は僕らの後を追ってきた。

 ウィクトルとテティスがザムのすぐ後ろで兄の両側を固め、続いて父と騎士団長、最後尾にディモがついてくる。

 オオカミや野ウサギが踏み荒らしたらしい、雪と土が入り混じった木立の間の地面を縫っていく。

 騎士団長とディモの話では気配は感じられるようだが、やはり他のオオカミたちは近づいてこない。その他の小動物たちも同様だ。

 先日のザムの疾走とは違ってこんな奥をゆっくり歩くのは初めてで、面白い形の葉を残す木や、ぽきり折れると粘りのある白い液を垂らす木など、僕には興味深い観察物だった。

 木の入り組みを迂回して何度か方向を変え、ふだんの僕らなら来た道が分からなくなりそうな進行が続いた。ただずっと辿る細道には多数のオオカミらしい足跡が印されていたし、雪解け地面に今の我々の足跡も残される。まちがっても、帰りに迷うということはなさそうだ。

 まだ新しい、こちらへ向かう多数のオオカミの足跡が残っている。ということは――と、僕にも行く手の見当がついてきた。

 先夜、オオカミの大移動が行われた、その元の方向だ。

 ややあって、兄も同じことに気づいたらしい。


「ディミタル男爵領へ続く道か?」

「ディミタル男爵領だと?」

「はい、父上。先夜オオカミが逃げ出してきた道を辿っているようです」

「そちらにまだ何かあるのか? それにしても、この顔ぶれで隣の領へ無断侵入するわけにはいかぬぞ」

「分かっています。そちらへ入る前に、ザムを止めましょう」


 間もなく。予想通り、森の木立が終わって先に岩山が見える場所に達していた。

 すぐ正面に、例の領の境界を越える狭い裂け目が見えている。

 そこへ向かうかと思っていると、まだ森を出る直前で、ザムは足を止めた。

 改めて耳を澄まし、匂いを嗅ぐ動作をして、行く手を変える。

 わずかに進路を外れた横手に入り、家一軒ほどの距離をとって、大きな木の陰に回ってしまうのだ。


「何だザム、隠れるということか?」

「ウウ……」


 兄の問いに、どうも肯定の意味らしい低い唸りが返った。

 首を傾げながら、大人たちもとりあえずそれに倣う。

 いちばん納得のいかない様子を見せているのは、やはり騎士団長だ。


「あの岩の隙間の出入りを見張る、ということだろうか? しかし、何だって――」

「何がとは分かりませんが、あの辺りに不審なものが近づく気配を感じているのだと思います。問題はそれが、あちら側から来るのかこちら側からのものか、という点でしょうが」

「そもそも、そのオオカミの感知能力なのか勘なのか、どちらにしても、信用に足るものなのかね」

「そこらの人間とは比べものにならないレベルで信用できると、私は思っています」

「ふうむ……」


 兄の返答に、団長は釈然としないと言わんばかりの唸りを返す。

 しかしこの待機にとりあえず実害はないと判断したらしく、息を殺す姿勢に付き合いを始めた。

 何が起こるか予想できないにしても、当然ある程度の危険に動じない肝は据わっているのだろう。


 長く待つまでもなく。ややしばらくして、気配が伝わってきた。

 岩の隙間の通路奥から、数名の人影が忍び出てくる。いずれも腰に剣を提げた騎士風の装備。弓やら何かズダ袋めいたものやらを、それぞれ背負っているようだ。

 あまり広くない草地に、次々降り立つ。全員揃ったらしいところで数えると、総勢八名だ。


「何とも、怪しげな集団だな」

「どうします、呼び止めて問い詰めましょうか?」


 父の呟きに、テティスが問いかけた。

 同じ国内でことさら人の出入りは制限しないが、やはり他領から武装した集団が境界を越える際には届けが必要だし、それを誰何する権利はこちらにある。

 少し考えて、父は小さく首を振った。


「いや、もう少し観察しよう。彼奴ら、あそこで何かするつもりのようでないか」


 確かに。そのまま森の中に踏み込むのかと思いきや、八名の騎士たちはまだ枯れ草だけが広がる平地の上に荷物を下ろし始めている。

 リーダーらしい一人が、地面を指さして指示しているようだ。

 その姿を見やって、「あやつは……」と騎士団長が呟いた。


「見覚えがあるのですか?」

「いや、確信が持てませぬ。もう少し近づいて見なければ」


 父の問いかけに、団長は首を振る。

 それならばと観察を続けていると、騎士たちは妙な作業を始めた。

 開いたズダ袋を逆さにして振り落としているのは、何かの枯れ枝のように見える。それを足でずり集めて、こんもりとした小山を作る。

 続いてリーダーが指を立てて確かめているらしいのは、風向きだろう。こちらでもつられて確認すると、岩山の方から森の中へとそこそこの強さの風が感じとれる。山の岩肌を下って地面に当たった空気が広がり出す、自然現象ではないだろうか。

 騎士たちが、枯れ枝めいた小山に向き直る。

 あの形を見たら誰でも連想するだろう、その通りの用途だったようだ。

 一人が指をかざし、その先の小枝に赤く火が点る。加護の『火』らしい。

 しかし連想そのままの焚き火の様相にはならず、そこからは炎の代わりに灰色の煙が立ち昇ってきた。

 見る見るうちに煙の量が増し、森の中へ流れ込んでいく。


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