第32話 赤ん坊、散歩をする 2
ついこの間、兄に聞いたことを思い出す。
ベティーナはこの村の農夫の夫婦の元に生まれたらしい。
二歳のとき父親が流行病で亡くなり、寡婦となった母が領主邸の使用人として雇われた。
幼い子連れで大変な身の上だが、イズベルガやウェスタも育児に協力してくれて、すぐにしっかりメイドの役割を果たすようになった。娘も母について歩いたり領主の息子の遊び相手になったりして、みんなに可愛がられて育った。
しかし五歳のとき、母が肺炎を悪化させて死亡。残されたベティーナはイズベルガとウェスタに育てられる形になりながら、そのときからメイド見習いを志願してみんなの仕事を手伝い始めたという。
不憫ながら主人たちにも使用人にも可愛がられ、先にも聞いた通り八歳のときには兄と一緒に読み書きを習う機会をもらう。
そして今年、主人の次男が生まれ、その子守りとしてつけられた。この仕事を全うして『見習い』の肩書きを返上するのだと、大いに張り切っているらしい。
「いいことなんだけど、一生懸命になりすぎることがあるんだよなあ」と、そのとき兄が言っていた。
初めて文字を覚えるときには、睡眠時間を削っていたこともあったらしい。
そんな時には頑固になって周りの言葉が耳に入らなくなるので、みんなは遠巻きに気遣うようになるのだという。
今日もそんな調子で無理しなければいいが、と思う。
僕が小さいとはいえ、ベティーナもまだ九歳児なのだ。
おそらく僕の体重は、彼女の四分の一以上ある。
四刻の間休みなく背負って歩くのは、けっこうな重労働なのではないか。
僕の知る限り、今までこんな長時間連続はなかったはずだ。
別にどこかで途中休憩をとっても構わないと思うのだが、子守りは一向にそんな様子を見せないのだった。
僕が手を伸ばしてその頬に触れると、少し汗ばみだしているのが分かった。
しかし、
「あれ、ルート様、少しお手々が冷たくなってきましたよ。手袋しましょうか」
腰のバッグから毛糸の指なし手袋を出して、僕の手につけてくれる。
つまりは、僕のことを気にするつもりしかないようなのだ。
そのまましばらくすると、秘かにベティーナの息が荒くなっているように聞こえてきた。
まずいなあと思いながら、歩きを止めさせる方法が思いつかない。
悩むうち、
「ウォン」
と、やや遠くから声がした。
見ると、少し離れた防護柵の出入口に、ザムの姿が見えていた。
その後ろから、兄とディモ、アヒムも入ってくるところだ。
「あ、ウォルフ様ですね」
言っているうち、ザムが一気に駆け寄ってきた。
「ザム、ちゃんとお務めを果たしたの? 偉いねえ」
周囲をぐるぐる回って止まらない、その頭に手を伸ばして撫でようとベティーナが苦労しているうちに、兄と父子が近づいてきた。
見ると、それぞれ手に一羽の野ウサギをぶら下げている。ついでに狩りをしてきたのか。
「お目当てのキノコ、見つかったんですかあ?」
「おお、ばっちりだ。ザムの案内にまちがいなかった」
「よかったあ、いっぱい採れたんですかあ?」
「この一冬は保つだろうっていう量だけあるぞ」
「それじゃ、ルート様のお食事に、十分ですね」
「だな」
その間にも、ザムはベティーナの足に背中を擦りつけていた。一昨日も見た、要求の仕草に見える。
「こいつまた、ルートを背中に乗せたいみたいだな」
「そうなんですか?」
「お前もくたびれてきたところだろう? ザムに任せてしまえ」
「え……」
「ザムは元気いっぱい、まだ力が余っているみたいだからな」
「でもこれ、わたしのお仕事ですから」
「力が余ってる奴に任せて構わん」
「でも……」
「ザムは元気になっちまって、これからも散歩でもして運動させなきゃならないからな。ついでにお前に任せる。明日から一人と一匹の散歩を一緒にさせろ。背中に乗せて大丈夫か、これから屋敷までの帰り、確認しよう」
「はい……」
「俺は当分これから、村のみんなといろいろ作業を試してみなきゃならないからな。しばらくはお前一人が頼りだ。一人と一匹、よろしく頼む」
「はい、分かりましたあ」
背負っていた紐を解いて、ベティーナはザムの背中に僕を下ろした。
首に掴まると、オオカミは力強く歩き出す。
兄とベティーナが慌てて追いかけなければならない勢いだ。
「こらザム、ルートの散歩が目的なんだから、もっとゆっくり歩け」
「うぉうん」
ちょっとしょげたように、ザムは足どりを緩める。
「これは、加減をつけさせるの、大変ですねえ」
「そうだぞ。しっかりやれよ」
「かしこまりましたあ」
足どりがゆっくりになると、何とも快適な道行きになった。
しっかり首に掴まっている限りまったくふらつくことなく、足に力が入らなくても安定している。
少しの間観察して、兄も納得したように頷いている。
「ところでウォルフ様、野ウサギ狩りもしてきたんですかあ?」
「ああ、これな。ザムが捕まえてきたんだ」
「へええ」
「びっくりしたさね。俺らがキノコ採っている間にどこか行ったと思ったら、すぐ口元真っ赤にして、この三羽を咥えて戻ってきたさ」
ディモも、興奮の口調でつけ加えた。
どうも、自分の食事を済ませて、さらに戦利品を持ち帰ってきたらしい。
「たぶん、ルートルフ様に食べてほしいってことだと思うさ。持ってってランセルに料理させるといい」
「そうですねえ」
「一羽はディモとアヒムの家の土産にしてくれ」
村の家並みに入ると、居合わせた人々はぎょっとしたようにこちらを見てきた。
大っぴらにザムを披露するのはこれが初めてなのだ。
「ああみんな、こいつはオオカミのザムだ。これからしょっちゅう、ルートルフとこうして散歩することが多くなるので、よろしく頼む」
「へええ」
「やっぱり、オオカミかね」
「大人しいもんだ」
「オオカミを手懐けるなんて、やっぱりウォルフ様はたいしたもんだ」
兄が説明すると、村人たちは柔和な顔になっていた。
大人が安心したのを見て、子どもたちも近づいてくる。
「ルートルフ様、オオカミに乗って、すごーい」
「ねえベティーナ、触ってもいい?」
「触るのはダメ。近くで見るだけね。それにザムは、ウォルフ様たちが躾けて特別大人しいだけなんだからね。他の森のオオカミは危ないから、近づいちゃダメだよ」
「はーい」
「分かった」
わふわふザムの首を撫でながら手を振ると、きゃあ、と子どもたちの嬌声をもらった。
そのまま手を振って、屋敷の方角へ歩き出してもらう。
首の手に軽く力を込めるだけで、意志が伝わる感覚が面白く、嬉しい。
ディモから野ウサギを受けとって両手に提げた兄と、ベティーナが両側に付き添ってくる。
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