第47話 赤ん坊、筆記をする

 昼食を済ませた父が部屋に戻って休息をとることになり、引き続き残された家族は一階の目の届く範囲で時間を潰す。

 一緒に遊んでいたミリッツァがうとうとを始めたのでベティーナの膝に預けて、僕は兄のもとへ移動した。

 いつもなら読書の時間なのだけど、長い自宅待機が続いて、元から多くない蔵書に未読のものがなくなってしまっている。そのため、少し違う試みを始めることにした。

 そこそこ大きな筆記用の板をクラウスに用意してもらい、テーブルに置いたそれによっこらしょと四つん這いでよじ登る。

 今回の疫病対策の顛末について、記録をまとめておこうと思うのだ。

 もちろん兄やクラウスや、他の人に任せてもいいのだけど。最近ようやく指の力がついてきてペンを握ることができるようになったので、羽根ペンとインクで文字を書く練習をしたい。まだ本来のペンの握りはできず、ふつうに棒を持つ格好だけど、何とか書くことはできる。

 横で兄に見てもらいながら、板の上を這い回る、傍目には異様に映るだろう筆記姿だ。


「頭では分かっていても、信じられない光景ですねえ」


 テーブル横から覗き込んで、ヘルフリートが感嘆の声を漏らす。

 まあ確かに、めったに見られるものではないだろう。

 それにしても、文字を書くのは初めてでも本を読んだり兄やクラウスらと議論したりはこのところずっとここで続けていたので、母やイズベルガ、ベティーナらは僕のこんな姿を見てもことさら驚かなくなってしまっている。慣れというのは恐ろしいものだ。


「それにしても、わざわざそんなことを書いておく必要があるのですか?」

「きろく、だいじ」

「そんなものですかねえ」


 面倒なのでここでは詳しい説明はしないけど。

 僕からすると、そこそこ文化的な活動をしているはずのヘルフリートがそんな反応をすることからして、信じがたい。

 この国、なのか世界なのか。過去の出来事を記録に残す習慣が、公式にはほとんどないらしいのだ。

 先日王宮に出向いて疫病対策の話をしたとき、「前回の流行のときはどうだったのか」という質問をしても、父からもヘルフリートからもほとんど詳細な回答が出てこない。尋ねると、王宮にそうした記録が残されていない、という返事なのだ。

 対策を議論した会議で二十年前を記憶している人々の情報を集めても、こちらでクラウスから聞いた話を超えるほどのものはなかったようだ。

 病流行の現実とは別に、僕は愕然としてしまっていた。


――過去の記録に依らずに、どうやって行政を進めているんだ?


 もちろん、文書に残された過去の記録がまったく何もない、というわけではない。

 しかしわずかに聞くところではそうしたもの、公式のものに限るとほぼ歴代の国王の功績を誇る内容に偏っているらしい。

 極端にいえば、いいことだけ残して悪いことは忘れてしまおう、という態度ではないかと思ってしまう。

 もちろん、学者や在野の研究者などの私的著述はその限りではない。ただそちらになると、個人的な趣味関心に依ってきて、一貫性のないまた別に偏ったものになってくる。

 先日来、貿易や軍事の上での国力が云々、という話が出ているけれど。こういった面から見直しをかけていかなければ、国の力というものに結びついていかないのではないかという気がする。

 いや、ここで一赤ん坊が力説していても、何の解決にもなりようがないのだけど。

 微力の身としてはとりあえず、今手の届くところから始めてみようと思うのだ。

 今回の病の発生状況、国としてとった対策。兄に確認をとり、一緒に文案を練りながら、筆記していく。

 書かれた文字はミミズののたくりの方がよほど目に優しいと思える出来だけど、そこは練習なので許してもらう。

 今僕が乗っかっている板も、使用しているインクも、安くはないとは言うもののまだ使い捨て用の低品質のものだ。

 筆記板は一度使用した後で削って文字を消し、再使用するようになっている。インクもそれに合わせて、染み込みが少なく経年劣化が大きい種類のものだという。

 今回僕が書いたものは、後で改めて高品質の用具でクラウスに清書してもらい、残しておく予定だ。

 あまり理解しきった様子ではないものの、とりあえず父とクラウスから承諾を得た結果だった。


 そうやって、兄とやりとりしながら作業しているうち。

 ヘルフリートが何やらいろいろ道具を持ち出してきて、テーブルの一隅に並べ出した。


「坊ちゃま方に倣って、私もここで仕事をさせてもらってよろしいでしょうかね」

「ああ、構わない」


 兄の許諾を受けて、あちらでも筆記板やペンとインクを広げている。

 その横に、見たことのない道具が置かれた。板の本を二冊並べたほどの大きさ、高さは低い木の箱で、中にいくつか仕切りが入り、小さな石のようなものがかなりの数並べられている。

 ヘルフリートは板の書類に目を通しながら、片手でその箱の中の石を操作し始めているようだ。

 思わず目を奪われていると、兄が声をかけてきた。


「ん? ルートはあれ、見たことがなかったか」

「ん」

「計算盤だ。あれがないと、少し桁が大きい数の計算ができない」

「は、あ……」


 覗き込むと、書類に並ぶ三桁程度の数を合計していっているようだ。


――あれがないと、計算できない、のか。


 よく訊くと。この国の誰もが、あの計算盤がないと大きな計算はできないらしい。

 子どもは、初めて一桁から二桁の足し算引き算かけ算を覚える際、計算盤の操作で習う。

 次の段階では、実際に盤を使わず頭の中でそれを思い浮かべて計算できる練習をする。

 さらに桁が大きくなる段階でまた盤を使い、指を慣らして速い操作ができる練習を同時に進める。

 どうも、僕が兄の計算練習を見学した際にはその『頭の中で』の段階だったので、この計算盤にはお目にかからなかったらしい。

 そこそこ高価なもので、領地の領主邸にも一つしかない。ふだんは執務室でヘンリックが使用しているのだそうだ。

 妙なカルチャーショックのような気分で目を離せないでいると、ヘルフリートが笑い顔を向けてきた。


「ご興味がありますか? ルートルフ様の賢さならまったく使えないということもないでしょうけど、本格的にはまだちょっと難しいでしょうね。桁の繰り上がりなんか」

「ああ。隣の桁に指が届かないものな」

「大人でも一本指で操作する者がいるのですから、まったく無理ということはないでしょうけどね。しかし一本指操作は時間がかかって、まったく効率的ではないですから。初めて身につけるときに変な癖をつけたら後がたいへんですから、ルートルフ様も今から無理はしない方がいいです」

「だな。俺もそう思うぞ、ルート」

「ん」


 ヘルフリートと兄の親身な忠告に、素直に頷く。

 確かに、今その盤の操作を身につけたいという気は、ない。

 前から感じていたのだけれど、兄が『頭の中で』練習をしている計算なら、僕の暗算の方が速い。

 疑問に思っていた点、今日ようやく分かったわけだが、兄や他の人たちは頭の中に計算盤を思い描き動かしている分の時間をかけていたらしい。

 そこを、僕の頭は予め暗記していたように一瞬で結果を出すか、数字を縦に並べて書いた筆算を思い描いて計算する。そのどちらでも、計算盤を動かすより速く結果に至るようなのだ。

 こうして羽根ペンで文字を書いてみるより以前に、石盤でなら覚束ない筆記をすることができていた。その際に筆算を試し書きしてみたこともあるのだけれど、暗算でできないものにしても、おそらく今あちらでヘルフリートがしているより同じ計算を速くこなせる気がする。手が頭の速さに追いつかない今でそうなのだから、筆記に慣れたらもっと速度は増すと思う。

 そう考えると、僕にはこの計算盤というもの、まったく必要ない気がするのだ。

 しかし、だからと言って。

 前から考えていたように、僕はこの事実を誰にも話す気になれない。

 最近は家人たちに僕の実態が知られたとは言え、この点については事情が少し変わる。

 簡単に言えば、説明に窮するのだ。

 おそらく、根本の常識が違いすぎる。

 他のみんなが頭に盤を思い浮かべて基礎の計算を行っているらしいところを、僕の場合はすでに頭にインプットされているかのように結果が瞬時に浮かんでくる。これがどういう原理なのか、どうにか練習とかすれば他の人にも身につくものなのか、僕には分からない。

 その瞬時に浮かぶ基礎計算がなければ、筆算もできない。だからまた。これを人に説明することができない。

 少なくとも僕の中でこれらをもっと整理しない限り、人に話しても混乱させるだけになる結果しか思い浮かばないのだ。


――当分、保留、だ。


 思って、僕は目の前の筆記板に目を戻した。

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