第46話 赤ん坊、父を迎える

 外出禁止が始まって五日程度は、発症者が増え続けた。

 それも、患者の隔離と発症した家の消毒、同居者の経過観察を徹底したことで数日後には頭打ちとなり、累積感染者数は三百人弱で抑えられたという。

 王宮からの大号令の元、とにかく外出禁止の徹底が図られたことが大きいと思われる。

 感染拡大の恐怖から、王都中の住民が大人しくこれに従った。ほとんどの市民にとって、炊き出しで食糧が配給されるなら、しばらくの間の活動自粛に命がけで抵抗する理由はない。

 しっかり治療がされるというなら、発症者の報告にもためらいは少ない。

 患者が摂取できる食料提供に努めたことで、死亡者は六十人程度で残りは快方に向かったということだ。

 治療に効果が見られ始めたこと、口布装着や消毒の徹底でわずかな例外を除いて加療側への感染が防げたことが、関係者に大きな力を与えたようだ。

 十日目頃には新たな発症者もほぼなくなり、十四日目からは外出制限緩和ができるようになった。


 当初は王宮に泊まり込みだった父も、七日を過ぎる頃には帰宅できるようになった。

 とはいえ最初は、万が一にも外からの病原体を家族にもたらさないように、対面も会話も最低部屋の隅と隅に離れて、という徹底ぶりだ。

 それでも妻と子の顔を見、声を聞き、慣れたベッドで休むことは格別だったらしい。

 疲れのとれきれない足どりながら表情を新たにして勤めに向かう父の姿は、息子の目に少し格好よく見えた。


 外出禁止中の僕らはというと、身体を動かすにしても室内で行うしかない。

 兄は、テティスとウィクトルに見てもらいながらの剣の稽古を日課としていた。少し前から見習い程度に参加していたベティーナも、体力増強目的に一緒に素振りをしている。

 許可をもらって、護衛たちも交代で立ち合い稽古を行う。平時は外で行っていたものを室内に移しただけで、彼らには欠かせない習慣だという。

 そんなハードトレーニングを見ながら、僕はザムに掴まって歩行訓練。ミリッツァはザムの背に乗ったり床に転がってはいはいの練習をしたりしている。

 そんな中でいちばん運動不足だったのは外で走ることができないザムだったかもしれないけど、ここは我慢してもらうしかなかった。僕らを乗せて玄関ホールを駆け足周回させるのが、せいぜいだ。


 外出規制緩和が通達された朝、王都中に歓喜の声が響き渡った。

 あの、祭りの日に劣らない騒ぎだ。

 とはいえ、まだ地域ごとに時間を区切っての緩和だということだが、市民は皆整然とそれに従っているらしい。

 前回の病流行のときに比べて大幅に発症者も死者も減少して終息できたということが知れ渡って、行政側への信頼が増大したようだ。

 屋敷の二階バルコニーに昇ると、少し離れた市場の賑わいが聞こえてくる。

 地域制限がかかっているのだから人数はまだそれほどでもないのだろうに、祭り当日に劣らない活気が伝わってくるように感じられる。

「生きていてよかった」といういかにも実感のこもった声が、そちらから聞こえてきた。

 笑って、僕は抱いてくれている兄と顔を見合わせた。


 この日の夜帰宅した父は、食事を済ますなり寝室のベッドに倒れ込んでいた。

 ようやく翌日は休暇にすることができたので、起こしてくれるなという懇願だ。

 午近くになって起き出してきた夫に、母は笑いかける。


「疲れはとれましたか?」

「ああ。心配かけたな」


 母の近くに腰を下ろすのかと思いきや、ソファの兄に歩み寄る。

 思わず中腰になる兄の肩を、片手で抱き寄せる。

 そのまま腰を屈めて、床でミリッツァと戯れていた僕の腰にも父は手を回してきた。


「本当に助かったぞ。お前たちのお陰で、王都は救われた」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、呼吸が絶え絶えになるほどに。

 額に無精髭を擦りつけられても、今は何故か心地よく感じられる。

 上着から何やら酒精の匂いが立ち昇っているのは、息子たちを抱くために念を入れて、予め身体や衣服の消毒をしたためだろう。


「お役に立てて嬉しいです、父上」

「ん」

「お前たちは本当に、自慢の息子だ」

「きゃきゃ」


 半分僕に縋りつき、ミリッツァも一緒に父の脇にへばりついてきていた。

 大人に遊んでもらうときの、ご機嫌満開の様子だ。

 少し離れて、母がにこにこと穏やかな顔を向けている。

 そのまま子ども三人を抱きつかせた格好で、父は長椅子に身を沈めた。

 さらに引き寄せられて、僕とミリッツァは大きな膝に乗せられる。

 少し恥ずかしそうに身を離しかけた兄も、強引に脇に引き戻されている。


「今日からは、王都に出入りする物資や人の流れも再開される。まだ慎重に様子を観察する必要はあるだろうが、まず一段階復旧に向けた歩みが進んだと思っていい」

「喜ばしいことです」


 にこにこと、母の相鎚。

「そう言えば父上」と、顔の圧迫からようやく少し逃れることに成功した兄が、問いかけた。


「王都以外の地域に、感染の拡大はなかったのですか」

「お前たちの話を聞いてすぐに、各領地に指示を飛ばしたからな。王都から戻った者たちの隔離観察は徹底されたようだ。ベルネット公爵領から、隔離した者の中から数名発症者が出たという報告があったが、すぐに治療がされて快方に向かったということだ。他に発症の報告はない。これもあの日のうちに行動に移ることができた、お前たちのお陰だな」


 正確には、あの夜のうちに王都の屋敷にいる領主たちに触れを回した。その領主たちから、翌日早朝に鳩便が領地へ送られた。日が昇らないと鳩が飛べないため、これが最速の伝達だったということだ。

 日が暮れた直後くらいまでなら家々の明かりを頼りに短距離飛行ができる、というのは王都の中心部だけだ。


「今回のベルシュマン男爵の功績は、王宮内の誰もが認めるところとなっているようです。近いうち、国王陛下からもお声がかかるのではないかと言われています」

「そんなものは、どうでもいい。今はただ、家族と共にゆっくり休ませてもらいたいものだ」


 ヘルフリートの付言に、父は苦笑で返した。

 それに、やれやれと側近は首を振っている。


「そんな呑気なことを言っていられるのは、今のうちだと思いますよ」

「今だけは、呑気にさせてくれ」

「かしこまりました」


 頷きながらも、ヘルフリートはさらに真顔を引き締めている。

 母やクラウスらにも視線を回して、また主人に向かい直る。


「しかしながら、ある程度覚悟しておく必要はあるかと思います。これは内々の話ですが、ルートルフ様の知識がこれほどの規模で国の利益に役立つものと、改めて思い知らされたところです」

「うむ」

「出所がルートルフ様であることは秘密ですが、これまでの経過から、王宮や貴族の間では今回の件、少なくともウォルフ様の発想から出ているのではないかとは、噂になることと思います。ウォルフ様とルートルフ様の重要性が増すわけで、ますます身の安全に気を払う必要が出てくるものと存じます」

「それは、そうだな。世に平和が戻った分、警護の面ではさらに気を引き締めてもらいたい」


 居合わせている使用人たちを、父は一巡り見回した。

 話の届かない玄関先に詰めている傭兵を除いた、従来からの護衛四名は、真剣な顔で頷きを返している。


「ルートの秘密は、ますます外に知られるわけにいかなくなったと言えそうですね。隣国だけでなく、国内の貴族たちからも狙われかねないということになりませんか」

「ああ。そういう面も否定できぬ。利益になりそうなものなら形振り構わずほしがる貴族は、残念ながら少なからずいるだろうからな」

「まったく身を守るすべのないルートが狙われるくらいなら、まだ私の方がましです。今回の件も、出所は私だと思われている方がいいと思います」

「ウォルフが狙われるというのもとうてい容認できぬが、まあそこはしかたないだろうな」


 苦い顔で、父は長男の肩を抱き寄せている。

 少しの間、わうわう、と父の膝を叩くミリッツァの声だけが部屋に流れた。

 僕が手を伸ばすと、きゃああ、と妹は胸元にのしかかってくる。

 赤ん坊二人の頭を撫でて、父は居並ぶ全員を見回した。


「とにかくまあ、王都の賑わいは戻ってきたが、我が家の者たちはまだしばらく外出を控えることにする。安心して領地に戻れるのも、もう少し様子を見てからとした方がいいだろう」

「承知しました」


 代表して、母が応えた。



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