第27話 赤ん坊、出立する

 部屋で兄妹だけになった時間に、兄から話を聞いた。

 建国記念祭はグートハイル王国最大の祭りで、五の月の最終、五の光の日から土の日まで三日間、王宮前広場を中心に王都全体で行われる。

「俺も見たことはない、話に聞いただけだが」と断りの上での説明では。

 初日には国王の挨拶と、国軍のパレードがある。

 三日間を通して広場には屋台が並び、劇や踊り、歌などが披露される。

 最終日には集まった人々みんなで踊り、夜中まで酒が酌み交わされる。

 初日の夜には王宮で舞踏会が催されて貴族たちの社交の場になるが、それ以外は一般民衆のための祭りという色合いが強いようだ。二日目三日目には、貴族も民衆に混じって楽しんでいる姿が見られるらしい。

 初日の舞踏会に貴族の子どもが正式に参加するのは十五歳で成人した者に限られるが、それ以下でも十歳くらいから顔見せ程度に会場に連れられていく例は多いらしい。今回父は兄をここに連れていくつもりのようで、「正装を用意しておくように」という指示が来ている。さすがにこれは、僕とミリッツァは不参加だ。


「騎士候補生合宿で知り合った連中と会えるかもしれないから、楽しみだ」

「でもにいちゃ、ちゅうもくされるかも」

「そこなんだよなあ、問題は」


『光』の野菜栽培や天然酵母、製塩などで、この数ヶ月ベルシュマン男爵領は全国から関心を集めている。それらの発想の元が長男だと父が自慢して回っている節があるので、初めての社交の場で兄が注目を浴びることが十分に予想されるのだ。

 あるいはそれが、兄を呼び寄せる父の目的なのかもしれない、と思う。


「まあ、貴族として慣れていかなければいけないことなんだから、しかたないよなあ。この秋から初等貴族学院なんだから、逃げてもいられない」

「ん」


 貴族学院は、十の月から三の月までの冬期間、王都に貴族の子どもを集めて開かれる。おおよそのところ、十二歳から十四歳までの三年間通うのが初等学院、十五歳から十七歳までが中等学院、となっているらしい。

 初等学院では地理、歴史、算法など、貴族としての必須知識を身につける。中等からは生徒も成人を迎えているので、これに社交の経験を積む要素が加わるようだ。

 こうして話題に出すと、この冬には兄がいなくなるのだという現実が実感されてくる。ずっと何年も連続するわけではなく半年王都、残り半年が領地、というくり返しだというのがわずかに救いだけれど。

 何しろ僕は、兄がいなければ完全にふつうの赤ん坊としての活動しかできないのだ。

 まあ逆に考えて、冬期間には赤ん坊ライフを満喫できる、と割り切ればいいのかもしれない。

 僕が貴族学院に通う頃には兄もしっかり父の後継としての仕事に就いているんだろうなあ、とふと想像し、あまりに遠い将来に思えてその映像はすぐにかき消えた。


 そんな会話をしながら、僕はベッドの上で腕立て伏せのような運動。

 ミリッツァは兄の膝に抱かれてあちこちくすぐられ、きゃきゃきゃきゃと笑い声を立てている。

 最近この妹は、すっかり兄の抱っこが気に入ったようだ。

 少し喜ばしいことに、カーリンとのお遊び、ベティーナや兄の抱っこの間は、短時間僕の姿が見えなくなっても泣かなくなった。

 それでもあくまで『短時間』らしいけど。

 カーリンと遊んでいる間が、いちばん誤魔化されやすいようだ。そっと僕が姿を消しても、しばらくは気がつかないことがある。

 それでもちらと振り返って僕の不在に気づくと、次第に落ち着かなくなる。ちら、ちら、が多くなり、やがて遊びを放り出してはいはい、周囲を探し回り始めるという。

 ベティーナに抱かれているときに僕が部屋を出ていっても、すぐには号泣しなくなった。恨めしそうに僕を見送り、ひしとベティーナに縋りつく。少しの間はその姿勢を保っているが、長時間になってくると震え泣きが始まる。

 つまりは、少しの間なら我慢することを覚えたらしい。

「いじらしく我慢しているのが伝わってきて、わたしまで泣きたくなってきますう」とは、ベティーナの弁だ。

 その我慢させた後で僕が戻ると、半べその顔に笑いを浮かべて抱きついてくる。

 その半べそを見ると、二度とこんな可哀相なことをしたくない、と思ってしまう。

 いや、我慢することを覚えるのは絶対必要だと、頭では分かっているのだけど。

 そもそもこれに慣れてもらわないといちばん困るのは、行動が制限されている僕なのだから。

 それでもやはり、今こうして兄の膝上でのきゃきゃきゃ笑いを見ていると、ずっとこの笑い顔を守りたい、という気になってしまう。

 困ったものだ。


 出立までの数日間、家の中は準備に追われた。

 僕が経験する遠出、という点だけでも、最初の日帰り、次の二泊三日を超えて、今度は一週間近くなる予定なのだ。

 兄の正装は貴族のたしなみとして常備されていたようだが、それ以上にもう少し、人と会う際のための服装を作り足す必要があるらしい。

 僕とミリッツァにも、人に見られて恥ずかしくない衣服の追加が望まれる。

 こういう裁縫には、イズベルガが最も力を発揮するようだ。しかし今回はそれだけで間に合わず、ウェスタとベティーナを手伝わせ、さらに村の女性から応援を呼んでいた。

 こんな大わらわの準備になるのが、貧乏貴族の悲しさ、ということなのだろう。

 子どもは日々成長するので、田舎暮らしではめったに使わない種類の衣服を多数常備しておく余裕がないのだ。

 イズベルガの頑張りで、何とか必要分は間に合ったようだ。

 それでもやはりぎりぎりの綱渡りだったらしく、暖かくなってほぼ必要ないだろうが道中念のため用意しようという上着について、ミリッツァの分は僕のお下がりで我慢してもらおう、などと話している。

 決して、正妻の子との差別、ということではないはずだ。イズベルガの目の下の隈を見ると、そんな邪推を仄めかすことさえ申し訳ない、という気になってしまう。


 五の月の五の火の日、早朝に馬車で出発した。

 御者は前夜到着したヘルフリート、いつものように護衛二人が騎馬で横につく。

 ヘルフリートは、ベティーナに抱かれたミリッツァを見て目を細めていた。


「ご機嫌ですねえ。すっかりこちらに慣れたようで、喜ばしいです。初めて王都の屋敷に来られたときのミリッツァ様は、ぐすぐす泣きっ放しでしたから」

「ルート様にいちばん懐いてらっしゃるんですよお。今でもルート様が傍にいないと、大泣きして止まらないんですう」

「それはそれは。ルートルフ様。モテモテですな」


――赤ん坊の妹にもててもなあ。


 ヘルフリートとベティーナのやりとりに、内心ツッコミを入れながら。まあしかしこの辺、懐かれているだけよしとするべきかと思い直す。

 何だかんだ言って、とにかく好かれていることに悪い気はしない。


 前二回の馬車旅のときに比べて、この日は天気が今ひとつなのが残念だ。

 空は一面黒く曇り、しとしとと霧より少し重いかという雨粒が落ちている。

 馬車の中はそれほどでもないが、騎馬の二人は頭から被った雨具がぐっしょり濡れて、たいへんそうだ。

「寒くないか?」と気遣う兄に、「鍛えてますから平気です」とテティスとウィクトルは笑って応えている。騎士団予備隊時代の訓練で、この程度は何度も経験しているという。


 行程が進み、ロルツィング侯爵領に入っても天気はあまり変わらない。雨脚が強まったり弱まったりがくり返されているようだ。

 前回楽しんだ湖が迫る景観も、今日は暗く沈んで見えるばかりだ。

 それでも、馬車の中は暗い雰囲気になることはなかった。

 僕と並んで座席に座らされるとミリッツァはこの上なくご機嫌で、抱きついたり手を引っ張ったりしながら始終笑い声を上げている。

 道中のいちばん懸念されていた令嬢御機嫌問題が今のところ難なく過ぎていて、兄もベティーナも安堵の様子だ。


 間もなく湖畔の地帯を抜け、街道は畑地の間に入ったようだ。

 ふと見上げた窓の外に一台馬車がすれ違い、後方へ遠ざかる。

 少しして、脇からテティスの声がかかった。


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