第19話 赤ん坊、侯爵と会う
これも慣例には合わないのだろうが、向こうからつけられた条件で、兄は赤ん坊の弟を抱いた格好だ。
ついでというわけでもないが事情を話して、ミリッツァを抱いたベティーナも帯同している。ヘンリックが付き添っているのは予定通りだ。
執務室には侯爵と長男、執事らしい男が一人、待っていた。
五十代と聞く侯爵は矍鑠とした様子で、整えた顎髭に半分程度白いものが混じっている、大柄な男性だった。長男よりは少し背が低いが、横にがっしりしているように見える。
僕を抱いたまま兄は、片膝をついて目上の貴族に対する礼をとった。
格式張った挨拶の後、にこりともせず侯爵は兄と僕の顔を一瞥した。
「何やら面白い話を持ってきていると聞いている。時間は限られているので、晩餐の後に聞かせてもらおう」
「かしこまりました」
挨拶の後、テオドールも一緒に部屋を出てきた。
ちょうど好都合、と兄は廊下で話しかけた。
「テオドール様、大変失礼なのは承知しているのですが、一つお願いできないでしょうか。こちらから持参した食材について、当家の料理人に説明をしたいのです」
「ほう」テオドールの目が、愉快そうに見開かれる。「先ほど土産として頂戴した、あれですかな」
「はい。蒸し豆とトーフという食材なのですが、おそらくこちらでは見たことのないものだと思いますので。特にトーフは日保ちもしませんし、今回お邪魔した用件に関わる意味もあるので、今夜侯爵閣下とテオドール様にご賞味いただければと思うのです」
「ほう、それは興味深い。そういうことなら、今晩餐の用意で忙しい最中のはずですが、調理場へ参りましょう」
本当に抱いた興味は隠さない性格らしく、先に立って一階奥に案内していく。
調理場では、十人程度の白い服を着た人間が働いていた。戸口に呼び出すと、大柄な中年の料理長がやや苛ついた様子で現れた。
「済まないね、料理長。少し時間をもらって大丈夫だろうか」
「調理の目処は大方立って、これから仕上げに入るところですがね。あまり手間取る話は困ります」
「手間取るかどうか微妙、なんだがね。これを見てくれないか。今日の客人、ベルシュマン男爵のご子息からいただいたもので、まだ私も拝見していないんだが」
侍女に運び込ませた木箱を、テオドールは開かせた。
水を張って密閉した中に、白い角張ったトーフが十個ほど沈んでいる。
今日の早朝、ジーモンに作ってもらったものだ。
「何だねウォルフ君、これは?」
「キマメを加工した、トーフという食材です」
「ほう、キマメ」
兄の説明に、テオドールは愉快そうに目を瞠る。
逆に、料理長は眉を寄せている。
「キマメだと? あんな、食えないものが?」
「料理人はこう言っているが、本当だろうか、ウォルフ君」
「キマメはよく水に浸せば、味もよく栄養のある食材として使えます」
「本当ですかい。にわかに信じられないが」
「これをさらに煮たり焼いたり調理するのですが、このまま口にすることもできます。ちょっと、味見してもらえないだろうか」
「いいですがね……」
面倒そうにしていた料理長も、見たことのない食材には興味を惹かれたようだ。
庖丁を持ち出して一個の端を切り取り、口に入れる。
「どうだろう」
「ふうん……淡泊だが、かすかに味はある。柔らかい、奇妙な口当たりだ。まちがいなく初めてだな、こんなのは」
「急で申し訳ないが、これを今日の晩餐に加えてもらえないだろうか。うちの侍女に調理の例を説明させるから」
「今日の晩餐に、ですかい」
いかにも嫌そうに、料理長は顔をしかめる。
せっかく決めた献立を変えろと言われるのには、当然抵抗があるのだ。
それでもやはり主人と客人の希望を無視するわけにはいかないと思い直したのだろう、ぎろりとベティーナの顔を見た。
「どんな料理ができるんだ?」
「小さく切ってスープに入れるとかいろいろですけど、いちばん簡単なのは、ステーキですう。厚みを半分に切って、よく水気を拭いて、ゴロイモを乾燥した粉か小麦粉をまぶして焼きます。生でも食べられるから、一番奥が温かくなるまで焼けば十分です。それに何か、ステーキのソースをかけて食べます」
「ふうん。難しくはないんだな」
「もっと柔らかく作ったおトーフなら、ステーキにするにはまず重しを乗せて『水切り』をするんですけどお、今日のこれはそれ用に固めに作っているので、そのまま使えます」
「ふうん……試しにやってみるか」
考え込む料理人をよそに、テオドールが身を乗り出してきた。
好奇心を抑えられない顔で、兄を覗き込む。
「私もちょっと、味見させてもらっていいだろうか」
「テオドール様は、ダメです」
「な――何故だね」
「テオドール様と侯爵閣下には、完成した料理で味わっていただきたいからです」
「なんと――まあ、理由は納得はできるが……」
一瞬お預けを食らった犬のような情けない顔になってから、次期侯爵は笑い顔を取り戻した。
その口から「面白い、面白い」と呟きが漏れる。
そんなやりとりの間に、料理長は腹を決めたようだ。
「あんた、ちょっとつき合ってくれ」
ミリッツァを兄に預けたベティーナを連れて、奥の竈の方へトーフの箱を抱えていった。
すぐに説明を聞きながら調理を始める。戸口から見ていると、それほど時間をかけずに試作品ができたようで、焼き上げたものを切って味見を始めていた。一口して、目を瞠っている。
やがて戻ってきて、料理長はテオドールに報告した。
「本来の献立の邪魔にはならないでしょう。予定していたイノシシのステーキと並べて出すことにします」
「分かった、それで頼む」
頷いて、テオドールは兄の顔を見た。
「これで、いいんだね?」
「はい、ご面倒をかけて申し訳ありません」
「これだけのことをして期待を膨らませてくれているんだからね、期待を裏切られることはないだろうね」
「……少なくとも、今まで経験したことのない面白い食材、とは思っていただけると思います」
「面白い。それなら、父には事前に情報を上げないで食してもらうことにしよう。気に入られなければ晩餐が台無し、ということにもなりかねないが」
「はあ……お任せします」
「面白い、面白い」
くつくつと、テオドールは忍び笑いを続けている。
奥ではベティーナが、料理長に蒸しキマメについても説明をしているようだ。
やがて用を済ませて、戻ってくる。
「では、晩餐を楽しみにしているよ」
一緒に二階へ上がって、くつくつ笑いのままテオドールは別れていった。
与えられた部屋で、晩餐に呼ばれるまで僕は、ミリッツァとベッドで押し合いっこをして過ごしていた。
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