第20話 赤ん坊、晩餐に出る 1
晩餐には、侯爵と長男の他、その夫人と長男が出席していた。
上座の侯爵と直角の向きに、右手に長男と夫人、その息子。向かいの左手に兄と僕が座る。もちろん僕は赤ん坊用の特別高い椅子を、兄のすぐ傍に寄せてもらっている。
これも通常なら、小さな子どもが公式の晩餐に列席することはまずない。実際向かいの長男の家族も、十歳だという長子の下に二人子どもがいるそうだが、呼ばれていない。
そもそも離乳食しか食べられない僕が、こんな晩餐のメニューなど受け付けるはずもないわけで、場違いも甚だしいのだけど、主人に指名されて固辞することもできないのだ。
ちなみにまた無理を申し出て、広い部屋の隅にベティーナに抱かれたミリッツァの席を用意してもらっている。こちらも持参した乳と、最近ようやく食べられるようになった柔らかな離乳食しか口にできないわけだけど。
マイエラという夫人と長男エルヴィンを紹介され、挨拶を交わして晩餐が始まる。
そういう紹介はされなかったけれど従兄弟関係であることを知っているのかどうか、エルヴィンは一つ年上の兄に興味津々の様子だ。
隙のない笑顔のマイエラ夫人は「ベルシュマン男爵領はどういうところか、お話が聞きたいわ」と、兄に話を振っている。
好意的に解釈すれば、年若い客が場に馴染みやすいように配慮してくれているのかもしれない。
「本当に田舎の村なのですが」と断って、人口が二百人あまりに過ぎないこと、農産物についてなど、兄は説明した。
数年に続く不作で食糧難に陥りかけていたところ、この冬から製塩業を始めることができて持ち直した話をする。
夫人と息子は初耳らしく、やや目を丸くしている。侯爵父子は当然既知のことなのだろう、驚きを見せない。
前菜が運ばれてきて、食事を始めながら話を続ける。
皿に盛られているのは、温野菜をドレッシングで和えたもののようだ。赤、黄、白と何種類もの根菜と思われるものが混ぜられている。さらに混じっている細かい白と黄色は、茹でた玉子を刻んだものだという。
フォークで口に運んで、兄は笑顔になった。
「こちらは野菜の種類が豊富なのですね。知らない野菜も混じっているようですが、いろいろな食感がしておいしいです」
「エルツベルガー侯爵領は南北に広くてどこも農業が盛んなので、作物の種類も多いのですよ。――あら、これは何かしら。豆?」
応えながら、夫人が首を傾げている。
兄の皿を覗くと、クリーム色の豆。どうも、蒸しキマメのようだ。
さっきベティーナから説明を受けていた料理長が、献立に入れることにしたのだろう。
ちなみに僕の前には、いくつかの野菜を潰したものが少量供されている。
兄にスプーンを持たせてもらって、口に運ぶ。最近はこの程度、自分で食べることができるようになっているのだ。えへん。
「まあお利口。一人で食べることができるのね」
「ようやくできるようになったばかりで、油断すると零してしまうんですよ」
僕の手元を見て笑う夫人に、兄は苦笑を返した。
うっかり口横から垂れてしまった雫をこれ見よがしに拭くのは、ほどほどにしてもらいたい。
しかしまあ、それを見て和やかに笑う夫人と息子の様子からすると、ここにいる僕の責務は果たした、という気になってもいいかもしれない。
続いて、スープとパンが運ばれてくる。
僕の前にも量の少ないスープが置かれ、兄がスプーンを換えてくれる。
見慣れない白いスープは、夫人の説明では牛の乳が混ぜられているらしい。
おいしい。けれどますます零さず飲むのが難しく、場を和ませてしまう。
一方、籠で置かれた白いパンを手に取って、兄は目を輝かせていた。
それを見て、夫人が声をかけた。
「柔らかい白パンは、初めてですか?」
「あ、ええ。こんなに柔らかくなるものなんですね」
「でしょう? こちらでは二ヶ月ほど前からすっかりこんな柔らかいパンになっているのですよ。そちらにはないものなんですか?」
勢い込んでエルヴィンが話しかけてきて、「ええ、まあ……」と兄は言葉を濁した。
さらに畳みかけようとする息子に、「エルヴィン」とテオドールが声をかけた。
「勘違いしてはいけないよ。我が国で柔らかいパンが食べられるように広めたのは、このウォルフ君なのだ」
「え?」
「天然酵母、だったか。柔らかいパンを作る方法をベルシュマン男爵領で開発して、全国で使えるように男爵が公表したのだったよね」
「ええ……まあ、そういうことです」
テオドールの念押しに、兄は恐縮の顔で頷く。
エルヴィンはますます目を丸くした。
「ウォルフ様、僕をからかったのですか?」
「いえ、言い方が正確ではありませんでした。この方法で焼かれた白小麦のパンを食べるのが、初めてなのです」
「え?」
「先ほど話した不作の影響で、ベルシュマン男爵領には黒小麦しかないのですよ。この柔らかいパンの作り方を開発したのも、風味の悪い黒小麦のパンを何とか食べやすくしたいという、苦肉の策だったのです」
「そうなのですか。聞いてみなければ分からないものですね」
感心の顔で、夫人が頷く。
この内輪話はテオドールも知らなかったらしく、興味深く聞いている。隣の侯爵は関心なさそうに、さっきから無言のままだ。
「わうわう」と僕が隣に手を伸ばすと。兄はすぐに察して、小さく千切ったパンを口に入れてくれた。
僕は黒小麦パンも一度味見しただけだったが、確かにこちらはいっそう際立つ柔らかさだ。
「うまあ」と手を叩くと、向かいの親子が満面で喜んでくれた。
「この新しいパンは、あっという間に全国に広まったという話だね。新しいもの嫌いの父上も、これは抵抗なく受け入れたくらいだ」
息子に笑いを向けられて、侯爵はただ「ふん」と鼻息を返した。
そのまま食事中は無言を貫くつもりか、と思っていると、その不機嫌そうな顔が逆向きに捻られた。
「
その手にしたフォークが、温野菜の皿を指している。
「はい」
「この妙な食材も、其方が持ってきたものだろう。説明しなさい」
「――はい」
やや狼狽しながら、兄は皿に手を添えた。
「この豆――私もここに使われているとは知らなかったので、思いがけなかったのですが――蒸しキマメといいます」
「キマメ、ですか」
「はい、マイエラ様」
「キマメ――僕も知ってるけど」エルヴィンが声を上げる。「兵隊が遠征するとき、持っていく食料でしょう?」
「はい、こちらでも栽培されているのでしょうか」
「少しは作っているところがあるはずです。ですよね、父上?」
「そうだね。うちの領の護衛兵も、場合によっては遠征に出る必要が生じる場合がある。携行用の食料は常備しておかなければならないからね」
「どこでもそのような扱いだと聞きました」兄が頷く。「ふつうには固くて食べ辛いけれど栄養はある、ということだったので、何とか食べやすくならないかと工夫してみたのですが。事前に長時間水に漬けてから調理すれば、このように柔らかくなることが分かりました」
「水に漬ける? それだけでいいのかね」
「はい。もともと豆類の調理は水に漬けるのが常識として知られていたようですが、キマメはふつうの豆より長時間漬ける必要があるため、普及していなかったようです」
「では、我が領でもキマメの生産を増やしてその調理法を広めれば、食料事情が豊かになることが望めるわけか。この料理なら十分に、誰にも受け入れられる」
「はい。検討していいのではないかと思います。何よりもキマメは、栄養価が高いようですので。それにこの点はまだ実証していないのですが、小麦より冷害に強いと言われています。こちらの領の北部や我が領のような寒冷地でも、不作に陥る危険が少ない作物として有効ではないかと思われます」
「うーむ……」
腕を組んで、テオドールは考え込んでしまっている。
その父親の侯爵は、やはり表情少なく無言のままだ。
男たちの声が途切れたところで、マイエラ夫人が兄に問いかけてきた。
「キマメを水に漬けるということは分かりましたけど、『蒸し』というのはどういうものですか。何か特別な調理法?」
「ああ、はい。湯を沸かしてその蒸気で加熱する調理法です。キマメはふつうに茹でても食べられますが、蒸すと味や栄養が落ちないと言われています」
「それで、このような味になるのね。ぜひともその調理法、教えていただきたいわ」
「はい、先ほどうちの侍女からこちらの料理長に説明させました。さらにくわしい説明が必要であれば、言っていただければお答えします」
「それは、ありがたいです」
話しているうち、次の料理が運ばれてきた。
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