第3話 赤ん坊、言葉を覚える

 もう少し、周りの状況を知りたい。

 そのためには、少なくとも二つのことが必要だと思われる。

 一つは、この世界の言語を理解すること。

 もう一つは、自分の行動できる範囲を広げること、だ。


 言語に関しては、ベティーナに抱かれて歩き回る際の会話に耳を傾ける、という方法しか思いつかない。

 幸いにと言うか、毎日そこそこ会話を聞くことはできていた。

 何度も言うように、ベティーナの行く先としていちばんキッチンの頻度が高い。

 ほとんどそこに常駐している趣の、料理人のランセルはあまり口数が多くないが、その細君にして僕の乳母であるウェスタは話し好きで、ベティーナと顔を合わせるたび四方山話の花を咲かせるのだ。

 毎日そのやりとりをライブで耳にして、僕はヒアリングでの言語習得に努めた。

 結果、思った以上に早く、その意味を聞きとれるようになっていた。


 幸運な条件がいくつかあったのだ。

 まずこの世界の言語、単語単位ではなく、比較的一音ずつの発音がはっきりしている。この点、『記憶』にある母国語のものと共通点があって、とっつきやすかった。

 また文法的にはどうも、『記憶』の中で最も馴染みのある外国語と共通点があって、理解しやすかった。

 例えばのほんの一例だが、

「わたし、外に出る、裏の森へ、薪を拾うために」

 という感じの語順だというのが、かなり自然に頭に収まってきたのだ。

 ある程度そういう理解ができると、あとは次々新しい単語を覚えることで、さらに聞きとりできる範囲が広がっていく。

 赤ん坊の柔らかい頭脳、という利点もあったのだろうか。ほんの十日間かそこらで、僕はある程度の会話を理解できるようになっていた。


「やっぱり今日も、ろくな野菜が手に入らなかったよ」と、ウェスタの愚痴。

「もっと食べたくても、我慢するしかないですよねえ」と、ベティーナの相鎚。


 そんなことが、聞きとれるようになってきた。


 そんな会話で、分かってきたこと。

 我が家の姓は、ベルシュマン。どうも、貴族の端くれらしい。

 父親は今家にはいないが、どこかで働いているようだ。

 この屋敷は、父親の持つ領地の中。

 領地は狭いながら農業地帯だが、近年不作が続いている由。


――それが、雰囲気貧しい理由、か。


 ほとんどこれしか手に入らない、と料理人夫妻がキッチンテーブルに並べて見せているのは、青物の葉野菜――クロアオソウというらしい。コマツナ?、ホウレンソウ? と『記憶』が迷っている――にイモ――ゴロイモ。『記憶』がジャガイモと同じと囁く――だった。

 それも、少ないとは言え主人使用人合わせて六人以上いるはずの食事用として、かなり心許ない量に見える。

 まあ、すぐ飢え死にの心配をするにはまだ遠いとは言えるだろうけど。


 とにかく、そんなことが分かってきた。


 もう一つの課題、行動範囲の拡大には、まだいくつかのハードルが立ちはだかっていた。

 何しろ僕はまだ、はいはいもできない赤ん坊なのだ。

 ベティーナに抱いて連れ歩いてもらえる範囲は、なかなかこれ以上望めそうにない。

 してみると、あとは自力で、と考える他はないのだった。

 言ってみればトレーニングに努めて、一つずつできることを増やそう。


 ベッドの上で。

 まず寝返りを打つことは、思い立って数日のうちにできるようになった。

『記憶』の常識を信じれば、これだけでも家族が知れば狂喜乱舞しそうな快挙だ。

 しかし今の僕はそれだけで満足することなく、続いて『はいはい』ができることを目指していく。

 ベッドでのトレーニングで、腹這いの姿勢から少しずつ両腕に力が入るようになってきた、気がする。

 この辺の進捗は、常識に照らして異様に早い気もしないでもないのだが。

 もしかするとこの世界の人類の体力として、驚くことでもないのかもしれない。

 それに加えて、ふつうの赤ん坊にない『目的意識』を持って事に当たっているのだから、少しくらい早くても不思議ということもないと思う。

 またこんなことをしているうちに、視界に映るものもかなり明瞭、つまりはふつうに目で見えるようになってきていた。


 この辺の進捗は、言語の習得と同時並行で進められた。

 さらに同時に、言語の聞きとりに加えて発声の方も夜一人のときに何度か練習して、少しずつ体得してきた。

 とは言え、そこは赤ん坊の身体だ。どうしても舌足らずの発声になってしまうのは避けられない。

 自分で聞いていてあまりにも情けないレベルなので、当分人には聞かせられない、と固く心に誓うことに相成った。


 いや、それでなくても。

 ここまでのすべての進捗、体得したもの。何もかも、人には知られないようにしよう、と僕は考えていた。

 もうすぐ『はいはい』ができそうなことも、人の話を聞いて理解でき始めていることも、舌足らずながら言葉を発せるようになり始めていることも。

 すべて、おそらく、この月齢の赤ん坊としては早すぎるくらいのはずなのだ。

『気味悪い』と思われたり、監視がついたり行動制限されるようになるなどしたら、すべて台無しだ。

 こんなことができるようになったよ、とあの母親を喜ばせてやりたいという思いがないでもないけど、その辺はもう少し小出しにしていこうと思う。

 そのためにはまず、ベティーナに実態を知られないようにする細心の注意が、必要だと思われる。

 ということで、会話聞きとり以外のこれらの訓練はすべて、ベティーナが部屋から出た夜に限るようにするのだった。


 見た目幼くはあるけれど、ベティーナはなかなかに優秀な子守りなのだった。

 この寝室にいないときでも、僕が何らかの不快でむずかり声を上げると、数分以内には駆けつけてくる。

 室外にいても絶えずこちらに注意を向けている、ということのようだ。

 一度など、真夜中にも。

 これはまったく無意識なわけだが、僕は悪い夢にうなされて唸り声を漏らしていたらしい。

 気がつくと、ベッドの傍に誰かがいて、そっと胸元と頭を撫でてくれていた。

 ほとんど半分夢の中のまま、僕はその感触に安心して、再び眠りに戻っていた。

 暗い中で顔も見えなかったけれど、あの触れてきた手の小ささからして、ベティーナだったのだと思う。

 翌朝に顔を見たとき、思わず先の決意をかなぐり捨てて、感謝の言葉をかけそうになっていた。

 何とか冷静に考え直し、思い留まったけれど。


 こうして、いくつかの進展は見たけれど、欲しい情報量としては決定的にまだ足りない。

 そんな現状を見回してはみたけど。考えてみると、こうした意識を持つようになって、まだ十日程度なのだった。

 慌てることはない。しかし何か、気が急かされてしまう、そんな日々が流れていた。


 パンパカパーン!

 朗報です。

 ついに、僕の名前が判明しました。

 どうも、ルートルフというらしい。

 何しろ、今し方恒例の面会を果たした母から、


「よかった、ルートルフは今日も元気ね」


 と、笑顔を向けられたのだ。

 ルートルフ。

 先の子守りと乳母の会話から知れた姓がまちがいなく自分のものだとすると、

 ルートルフ・ベルシュマン

 ということになるようだ。

 何とはなしに、感動。

 その興奮のあまり、思わず母親に向けて予定外のサービスをしてしまった。


「……かあ……ちゃま……」


 間近の薄茶色の瞳が、いきなり大きく瞠られて、

 ひい、と大きく息が吸い込まれ、

 一瞬の間の後、


「きゃあああーーー」


 細高い歓声が、母の口から弾け出た。


「ねえねえ、聞いた? ルートルフが喋った! 『母様』って!」


「ええ、ええ、聞こえましたよ」

「おめでとうございます、奥様!」


 イズベルガとベティーナが、満面の笑顔で母に声をかけた。


「まだ六ヶ月なのに、なんてルートルフ様はお利口だこと」

「さすがはルート様です!」


 みんなの喜びぶりに、予定外のことをしてよかったと、一安心。

 でも、これ以上は当分控えることにしよう。

 それと、思い出した。

 以前から、ベティーナとウェスタの会話の中に「ルート様」という単語は聞こえていたような。

 あれって、僕のことだったんだ。気がつくのが遅かった。

 まあ今日ここで、母と息子の絆を深めることができた。結果オーライということで。


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