第2話 赤ん坊、境遇を考える
その後、分かったこと。
僕の世話をするのは、ほとんど最初の女の子一人が担当らしい。
世話係、『子守り』とかいう役割になるのだろう。
してみると、僕の生まれた家は、少しは上流階級寄りということになるのだろうか。
しかし、世話係が幼い子守り一人というあたり、十分裕福という気もしないわけだが。
僕のお腹が空いた頃、子守りとは別の女性がやってきて、乳を含ませてくれた。
どこか事務的に感じられるその様子では、母親というわけでもないようだ。乳母ということになるのか。
「××××、ベティーナ」
「××××」
というやりとりで聞きとれた限りからすると、子守りの名前はベティーナというらしい。
『西洋』という単語が、また頭をよぎる。
抱き上げられた拍子によく見た、青い目、ピンク色の髪、顔つき。
『西洋』という以上に元の世界とかけ離れている、と『記憶』が告げる。
乳母が出ていくと、ベティーナはしばらく僕を抱っこして部屋の中を歩き回っていた。
開いている窓を見ると、どこか長閑な木々が並ぶ景色に、夕陽らしい色合いが差し込んでいる。
ベッドに寝かされてしばらくした後、ベティーナに抱かれて部屋を連れ出された。
薄暗い廊下の先に見えるのは、下り階段らしい。とすると、ここは二階ということか。
そのまま階段までは進まず、手前のドアにベティーナは向き直った。
その拍子に、妙な気配みたいなものを感じて、僕は廊下の後先を見回した。けれど、誰の姿もない。気のせいだったか、と改めてドアを見直す。
ノックして入った部屋で、ネグリジェ姿の小柄な女性がベッドに半身を起こして僕を迎えた。
この人が、母親らしい。
にこにこ嬉しそうなその金髪に色白の顔は、まだ幼さが残るが相当な美人と言ってよさそうだ。
傍についているメイドらしい中年女性の気遣いようからして、どうも身体が弱くて伏せっているということらしい。
育児を子守りと乳母に任せている実態が家柄のせいか母の健康のせいかは分からないが、とにかく僕を抱きとるその仕草に愛情は感じとれて、安心した。
「××××」
「××××」
「××××」
この日の僕の様子を訊ねているのではないかと思われるベティーナとのやりとりも、息子への気遣いが声音に籠もって感じられる。
あまり長い時間母親のもとにいることは叶わず、また僕はベティーナに抱かれて元の部屋のベッドに戻された。
その後、部屋に照明が灯されることもなく、僕が大人しくベッドに収まっているのを確かめて、ベティーナは部屋を出ていった。
子守りの寝室は別にあるようだ。
一人残されていろいろ考えようかと思っていたが、赤ん坊の悲しさ、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。
翌日以降、僕は主にベティーナを相手に、いろいろ駆け引きを工夫することになった。
とは言え、そんな複雑なことでもない。
子守りが赤子を寝かしつけようと抱いてあやす際、少し聞き分けなく不満な様子を見せると、ベティーナは他に対処の知恵もないのだろう、そのまま部屋を出て家の中を歩き回るのだ。
それによって僕は、家の中の構造と人の構成、会話の様子を少しずつ知るようになった。
すぐに知れたところでは、家の使用人は子守りのベティーナと母親付のメイド、料理人とその妻子、あと一人男性の歩く姿が見えた、これですべてらしかった。
数日を過ぎても、母親以外の家族と顔を合わせていない。父親がいるのかいないのか、今のところ不明だ。
母親とは毎日夕食後に面会するのが日課のようだが、数回叶わなかったのは健康面の問題だろうか。
ベティーナの行く先でいちばん頻度が高いのはどうもキッチンで、そこには料理人と妻のどちらか、あるいはその両方がいた。
なお、料理人の妻は、僕に乳をくれる、つまり乳母だった。その傍らにはいつも籠に入れた赤ん坊がいる。
料理人の妻の出産が雇い人の奥方と同時期だったので乳母として重宝された、という事情のようだ。
その他、ベティーナが僕を抱いてあやしながら歩き回るのは、二階の僕の寝室から廊下、階段を降りてキッチンから食堂、玄関前のフロア、という範囲にだいたい決まっていた。
二階には部屋がそこそこ、少なくとも八部屋以上はあるようだ。
食堂も玄関前フロアも、かなりの広さがある。
『記憶』のある世界とはかなり違う、「やや小さいながら貴族のお屋敷相当」と告げてくるものがあった。
ただ、その広さに比べて装飾品などが乏しいのではないか、というお告げも。
何度か考え直しても、僕の中にある訳の分からない『記憶』と、それとはかなりの部分で相容れない現実、この二つの共存は容認していく以外ないようだった。
『記憶』の方は、その後少しは鮮明になっていくかと思いきや、さにあらず。何ともぼんやり頭の中に常駐を続けて、事あるごとに現実からの連想よろしく唐突に何やらを伝えてくる。
自分自身なのか別人なのかはともかく、一人の人間が生きていた世界の『記憶』なのだとは疑いなく思えるのだが、それ以上の具体性が見えてこない。
自分でも半分以上意味が分からないのだが、『例えてみれば記憶喪失のような』という単語が浮かんだ。どうも、一般常識的知識は思い浮かぶのに、自身の身近な記憶は戻らない、という喩えのようだ。そんなものか、とぼんやり思う。
まあとにかく、一日のほとんどをベッドで寝て過ごす身の上、考える時間だけは嫌というほどある。この『記憶』についてもいろいろ検討してみるにやぶさかではないのだが。
こちらも何となく、本能のようなものが告げていた。
現実の方をしっかり認識するのが優先されるべき、と。
何にせよ、自分の身の上はおそらく生後数ヶ月かと思われる赤ん坊、だ。
別に何を思い煩うでもなく、子守りの世話を受け、のんびり過ごしていて誰からも文句は言われない。
乳母から乳をもらい、子守りに下の世話をしてもらい、それだけで最低限の生存は続けられる。
しかも生まれた家庭は、そこそこ格式のある身分らしい。
何の心配もなく赤ん坊ライフを続けていて、問題なさそうではある。
しかし、何となく、本能的なレベルで、不穏なものを感じるのだ。
その理由を述べよ、と言われても、すぐには答えられない。
何とか無理矢理レベルでひねり出すならば、次のような点になるだろうか。
・僕の父親は、どこにいるのか。
・この家、想像される格式に比べて、実際の生活状況が少し貧しくないか。
一つ目の点は、かなり重要ではあるがすぐに結論は出ないので、今は置いておく。
二つ目の点。いや、この世界での現実、常識など、まったく知らないわけだけど、何となく引っかかるのだ。
一つには、家の大きさに比べて、使用人の数が少なく思われる。
いちばん気になるのは、メイドだ。
僕の子守りをしているベティーナと、母親にずっと付き添っている年輩女性――イズベルガというらしい――の二人しか、どうもいないらしい。
一度イズベルガが僕の部屋に来て、ベティーナに赤ん坊の抱っこのしかたの指導らしきことをしていた様子を見ると、言わば上司と部下の関係に当たるようだ。
前にも感じた通り、ベティーナの方はまだ『幼女』と形容しても異論は出そうにない、『記憶』の方の常識に照らしておそらく九~十歳と思われる、どう考えてもメイド『見習い』としか思えない外見だ。
つまり、ここまで知れる限り、この家に務めているのは『メイド長』と『メイド見習い』の二人だけ、ということになる。
これは、家の大きさから見て、少ない。また、年齢や経験を見た構成としても偏りがすぎる、という気がしてしまう。
もう一つ。
前にも言ったように、僕は何度かベティーナに抱かれてキッチンに入ることがあった。
そこで、ほとんど準備が終わろうとしている夕食を目にした。その、感想。
――何とも、慎まし――すぎるんじゃないかい?
黒ずんで見るからに固そうなパンらしきものが一つと、何やら野菜を煮込んだらしい一皿、それが一人分のすべて、と思われる。
数人分が並んでいる様子からして、主人用と使用人用でどうも大差はないようだ。
主人側になるはずの僕の母親が病人扱いだという点を差し引いても、慎ましいにもほどがある、という印象だ。家の広さから連想される格式と、あまりにもギャップが大きい。
時たま窓の外に見える風景と肌に感じる気温から判断する限り、今は『記憶』の常識に照らすと季節は秋に当たると思われる。
『収穫の秋』という常識がここでも当てはまるとしたら、現在でこの状態、この先冬に入って大丈夫なのか、という懸念まで湧いてくる。
まあ、そういうことだ。
何にしても、生後数ヶ月の赤ん坊が気にしてどうなるものでもない、とは思われる。
そうだとしても、気になってはしまうのだ。
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