第116話 赤ん坊、図書を借りる
「そういえば、かてんか、なにかばるたに、はなしがあるんじゃなかった?」
「ああはい、はいです」
書写していたペンを置き、慌てて自分のポケットを探っている。
取り出したのは、何かいろいろ書き入れられた紙だ。
「これ――なんですけど」
「何ですか」
裏表を見比べている紙は、確か一昨日ナディーネがヴァルターからの伝言を預かってきたメモだ。
それを裏返して文官の机に広げる。
「その――これ、誰が描いたのですか?」
「え、この落書き絵のこと?」
「はい」
メモ紙の裏側にもいろいろ文字や絵が書かれているのだが。カティンカの指は、その隅のそれこそ落書きめいた絵をさしている。
どうも、例のお伽噺本にカティンカが描いた挿絵、村人が踊るシルエット画を摸したものらしい。
「えーと、あれ、そう――うちの妹が描いたんじゃないかな」
「妹さん、ですか?」
僕が貸したお伽噺本と反故紙を家に持ち帰って、妹と弟に見せたときのものだという。十一歳と九歳の妹と弟に見せて反応を確かめてほしい、という僕の依頼に応えてのことだ。
噺の内容はもちろんだが妹は挿絵にもずいぶん興味を惹かれて、反故紙の隅にそれを真似て描いていたということだ。
「見ての通り、子どもの稚拙な絵だろう?」
「その、へた――なんですけど、うまいんです」
「え、どういうこと?」
「これ」いくつかあるシルエット画の端の一つを、カティンカは指さした。「わたしが描いたのと、違う格好なんです。筆遣いは慣れてなくて稚拙に見えるんですけど、ちゃんと形になってるんですよ」
「そうなんですか?」
「たしかに、ひとのかっこう、しぜんにみえるね」
横から覗いて、僕も頷く。
それに、カティンカもいつになく力を込めて頷いている。
「でざいんりょく? かなり、うまれもったさいのう、いうんじゃない?」
「よく分からないんですけど、もっと絵はうまいって言われていても、こういう形を作ってみせるの苦手だという人、多いみたいです。十歳かそこらなら、まずこんなしっかり描けません。わたしも慣れるまで、こんなに描けませんでした」
「さいのうあるってことかな、いもうとさん」
「分からないですけど――もしかして――たぶん――。筆遣いとかそんなのは、練習すればうまくなるものですから」
自信なさそうに、カティンカは首を捻っている。
まあ、本格的に絵の指導を受けたことがないという彼女に、他人の才能をどうこう言えというのも無理な話だ。
しかし一方で、いつも消極的なこの侍女がここまで進んで、同僚と役目交換を申し出てまでして、これを言うために出てきたのだ。何か確かなものを感じとっているのは、まちがいないのだろう。
それを分かってはいるのだろうが、ヴァルターは難しい顔で唸っていた。
「うーん――確かに妹は、こういう落書きみたいなのを描くのは好きで、よく地べたとか板とかに描いているんですが。才能と言われても――」
「もし、さいのうあるなら、べんきょうさせる?」
「本人が望むなら――いや、しかし――たとえそうでも、将来役に立つでもないでしょうし――」
これもまあ、兄として当然の逡巡なのだろう。
多少絵を描くことに秀でていたとしても、それを活かす職に就くということはまずあり得ないのだ。
絵だけで身を立てることができているなど、王宮や貴族に雇われるほどの一握りの画家しかあり得ない。それ以外で絵描きが収入を得る道は、何処にも存在していないのだ。
店の看板に絵を描く、家具などの模様を描く、などの役目はあったとしても、それらはおそらく木工職人の余技程度のものだろう。
「ちゃんと――かてんかほどじゃなくても、そこそこかけるなら、ぼくがやといたい」
「え、ルートルフ様が、ですか?」
「このさき、いんさつぎょうに、えをかけるひと、もっとひつよう」
「ああ……」
「ほんにんがよければ、だけど、たしかめさせてもらって、いい?」
「ああ、はい」
「かてんかのてほん、まねしてかいてもらう」
カティンカに命じて、簡略画の人間をいろいろなポーズで描いてもらう。紙三枚に、踊っている姿、走っている姿、農作業の様子など、五十パターンほどもできただろうか。
これをヴァルターに家に持ち帰ってもらい、妹にその気があれば、模写させる。失敗したら、バツをつけて描き直してもいい。できるなら、自分で別なポーズを考えて描き足してもいい。
描くのは紙でも板でもどちらでも好きなものでと言うと、ふだんは板を使っているのでそれがいいでしょう、とのヴァルターの返答だ。重いかもしれないが、筆記板を五枚持たせることにする。
その結果を見るまでには数日待つことにして、執務に戻る。
先日から読んでいたもう本が終わるので、図書室から追加の貸し出しを、ヴァルターに依頼する。希望の内容を書いて渡すと、文官は受けとって頷いた。
「了解しました。それにしてもやっぱり、ルートルフ様の読書速度はたいしたものですねえ。前からこんななんですか」
「さあ。まともにほんよむようになったの、にかげつまえ」
「あ……」
文字を覚えてからでも、九ヶ月程度なのだ。前から、も何もあったものではない。
相手が生後一年四ヶ月だということをすっかり失念していたようで、ヴァルターは苦笑いになっていた。
照れ隠しのように僕の書いたメモを見て、
「先日ここの司書とも話したのですが、ルートルフ様のご希望に適う本もそろそろ底をつきそうだということです。うまいものがなければ学院の図書室などに照会を回すということなので、少々お時間をいただくかもしれません」
「ん。えと――おうきゅうとしょしつ、いがいとぞうしょすくない?」
「王宮と学院の図書室で蔵書量は国内一二位を争う、と言われているわけですが、内容が希望に沿うということになると、なかなか限られてくるようです。こう言っては何ですが、王宮の方の蔵書は玉石混交といいますか、とりとめない傾向がありまして。専門の図書については学院の方が多いはずなのですが、こちらは貸し出しにいろいろ条件がつくので、時間がかかるかもしれません」
「なるほろ」
実際には王宮図書の方が王族以外への閲覧や貸し出しの制限がきついのだが、僕については国王と王太子の特別許可が出ているという現状だ。
対して学院図書については、教職員や在学生か卒業生でないと原則閲覧が許されないということになっていて、今回の照会もどれだけ許可が出るか不透明ということらしい。
ここでも王命による特別措置を振りかざしたい気も起きるが、現況学者や学生の研究を妨げてまでその必要があるかと問われると、少し心許ないところがある。何しろ今のところ、僕が興味惹かれたものについて手当たり次第目を通しているだけで、これが何に役立つかという当てもないのだ。
当面学院の方はうまく許可が出れば儲け物、という程度に思っておいて、王宮の蔵書にある範囲に興味対象を広げていく方が現実的、という気がする。
王宮図書室についてもヴァルターが入室できるわけではなく、司書に希望を伝えて該当しそうな本を出してもらうというまどろっこしい手続きになっている。こちらは強く要望を出せば僕の入室閲覧も認められるかもしれないが、しばらくは行動制限がかかっているのだから、無理押しはしない方がいいだろう。
今日希望を出した分については、午に図書室を訪ねてあるものは借りてくる、とヴァルターは請け負ってくれた。
「今日もお昼にベルシュマン子爵閣下がいらっしゃる予定ですので、私はその間に失礼して行って参ります」
「ん、よろしく」
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