第30話 赤ん坊、スープを飲む

 母の部屋を出て、下の食堂に降りた。

 僕の件については使用人一同が承知しておくべき、と言うヘンリックに、兄もついてきた格好だ。

 食堂にはイズベルガも含めたいつもの顔ぶれ、つまりはこれで使用人全員が揃うことになった。

 ヘンリックの説明に、全員の顔が曇る。

 最も先に真っ青になったのは、ベティーナだ。


「わたし、わたし……気がつかなくて……」

「ベティーナのせいじゃない。本当ならはいはいを始めた後くらいからの変化で気がつく場合があるようだが、ルートの場合、その時期から俺が連れ出すことが多くなって、気がつくものも気がつかなくしてしまったんだ」

「でも……」

「わたしも、気がつきませんでしたよ。一ヶ月生まれが遅いうちの娘が最近はいはいしそうになってきて、ルートルフ様ならもうそろそろつかまり立ちを始めなきゃおかしいと思わなくちゃならないのに」

「二人とも、それを悔やんでいても始まりませんよ」

「イズベルガの言う通りだ。母上も言っていたが、誰が悪いじゃない。これからルートのためにどうするかなんだ。

 まずは日光に当たるように散歩に連れ出す。これは、俺かベティーナが担当する。それから栄養を考えた離乳食、これをランセルとウェスタに頼む」

「かしこまりました」

「キノコ……日に干したやつ、ですか」

「ここにあるか?」

「前にはよく採れていたそうなんすが、最近はめったに手に入らなくなってるす。確か、少しなら在庫が……ちょっとお待ちください」


 キッチンに向かったランセルは、少しの間棚を探って戻ってきた。


「これ、なんすけどね。在庫はこの二個だけ、す」

「干からびた、妙なものだな」


 初めて目にしたらしく、その茶色の丸く平べったいものを兄は薄気味悪そうに見た。

 ヘンリックも別方向から覗き込んで、


「それでまちがいないでしょう。それを使ったスープを離乳食にするということです。明日の朝から、できますか?」

「へえ。水で戻す必要があるんで、今からやっときます」

「あとは、今後も手に入るか、ですね。手に入りにくくなっている事情は知りませんか?」

「確か……これもオオカミが関係してたような。明日、ディモに確かめてくる、す」

「頼みます」

「みんな、よろしく頼む」


 思わず僕も兄と一緒に頭を下げそうになって、自重した。

 兄の部屋に上がり、ベッドに座らされて。

 僕はそのまま、前屈みに両手で頭を抱えていた。


「おい、具合悪いのか?」

「んん」

「どうした」

「はじゅかしい……」

「え?」

「じぶんのこと、わすれてた」


 母や領民のことばかり考えて。

 悔恨は、兄と似たような観点だが、立場が違う。

 調べれば、分かったはずなのだ。こんな生活環境の赤ん坊が、どんな健康状態になるか。

『記憶』は基本的に、問いかけなければ情報を与えてこない。

 さっき、慌てて探ると、すぐ応えがあった。

『クル病』

 ビタミンDの欠乏により発症。

 骨が軟らかくなって変形や成長障害を起こす。歩き始める一歳ごろに発覚し、足に負荷がかかってO脚などになりやすい。

 軽度の場合、紫外線(日光)を浴びること、ビタミンDを多く含む食材の摂取で、回復が見込まれる。

 日光浴は冬場で一日二時間(四刻)以上程度が望ましい。

 ビタミンDを多く含む食材……魚肉、肝臓、鶏卵、天日干しシイタケ(きのこ)、海藻類など。

 分からない単語も多々混じっているけど、だいたい理解できた。

 こちらの医者の言ったことで、ほぼまちがいないようだ。

 もっと早く、気がつけばよかった。

 はいはいまでは必死で習得したのだけど、その先はトレーニングをさぼっていた。

 だいたい、はいはいで足に力が入らない点で、疑うべきだったのだ。

 悔恨。


「自分のことって、あまり分からないものだしな。それ以上にこの半月あまり、領地のことを考えるのに時間をとられすぎた。俺のせいでもある」

「んん……」

「とにかく、これからのことを考えよう。お前の妙な知識ってやつ、この病気についてはあるのか?」

「……あった」

「今日の医者の話と、違いは?」

「いっち」

「じゃあ、方針はさっきのでいいのか。日光を浴びるのと、あの出ていた食材」

「ん」

「それとさ、日光不足が悪いって言ってたよな」

「ん」

「お前の加護の『光』、日光と同じかそれ以上の効果がある」

「ん」

「日光浴びないといけないのに、『光』を使うと身体からその効果の分が減っていくってこと、考えられないか?」

「あ」

「俺も加護についてそんなくわしいことは分からないけど、そんなことがあっても不思議はない気がするんだが」

「……ふめい」

「そうか。まあ、前にもお前、その妙な知識で加護のことはまったく分からないって言ってたものな」

「ん」

「それでもとにかくお前、当分加護を使うの禁止、な」

「……う」

「お前が特殊で忘れてたけど、そもそもふつうは一歳になる前に加護を使うのは禁じられているんだ。もしかするとこんな病気や、そうじゃなくても赤ん坊の身体にはよくないってこと、昔から知られていたのかもしれない」

「……ん」


 今日が十一の月の八日目。

 僕の誕生日は三の月の三十日目ということで、少し前に生後七ヶ月となっている。

 一歳を迎えるのは来年の三の月の末で、ほぼ冬が終わり雪解けを迎えている時期だという。


「これまでムチャクチャ助けられて、今さら厳しい言い方も悪いけどさ、頼むから使うのやめてくれ」

「ん」


 ランプを吹き消して、兄はベッドに潜り込んできた。

 僕を抱えて、しっかり布団にくるまる。


「お前は絶対俺が守るからな」

「……ん」


 その夜は。ときどききつい締めつけが苦しく思えたりもしたけど。

 朝まで夢も見ずに、僕は熟睡した。


 ベティーナが起こしに来て、起床。

 食堂へ降りると、料理人夫妻と執事が揃っていた。

 キノコスープの出来上がり確認が目的のようだ。


「キノコを戻した水ごと沸かして、汁だけちょっと塩味をつけました。柔らかくなったキノコを潰して入れてもいいって言うか、もっと栄養がある気もするんすが、初めての離乳食なんで、スープだけの方がいいかと」

「それでいいんじゃないでしょうか」

「ちょっと妙な茶色で、かび臭いみたいな匂いだな。こんなものなのか?」

「キノコだけなら、こんな感じす」

「うん、まちがいないなら、飲ませてみよう」

「かしこまりました」


 椅子に座ったウェスタの膝に乗せられ、スープをすくった木匙を近づけられる。

 ふうふう冷まして、口へ。

 こく、と少量だけ舌から喉へ落ちる。

 かすかな塩味。それほどのおいしさはないけど。

 なぜか、懐かしいような味がした。


「あ、飲めましたあ」

「よかったですね、ルート様。はい、もう一口」


 不味くはないし、栄養的に飲まなければいけない、と思う。

 ベティーナの歓声に応えたい、思いもある。

 しかし、四口ほど飲んだ後、もう口が受け付けなくなっていた。


「うーー」

「あれ、ルート様、もういやいやですかあ」

「お乳以外で初めてだからね。まだ口が慣れないんだよ」


 言って、ウェスタは匙を置いた。

 続きは、いつもの母乳になる。

 こちらに背を向けて、ランセルとヘンリックが話し合いをしていた。

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