第29話 赤ん坊、病気を知る

「母上とルートルフの検診に続いて、希望していた領民の診療はすべて終わりました。例年の同時期に比べて具合の悪い者は少ない、栄養状態もいいようだ、という医者の先生の感想でした」

「よかったわ。これも、ウォルフたちの食料改善の働きのお陰ですね」

「森の調査は、予定の項目を終わらせました。まず、ウォルフ様の地図通りに洞窟を見つけ、塩湖の存在を確認しています。持参した樽五つ分の塩水を持ち帰り、これから塩を取り出す研究を始めます。王都の旦那様が、南の海での製塩の方法について、今調べてくださっているはずです」

「よかったわ、ちゃんと見つかって」


 僕を抱いている両の掌を合わせて、母は祈るような表情になった。

 やはり兄を疑うつもりはなくても、無事塩湖が見つかるかはみんな案じていたのだ。僕と兄でさえ、ザムとの出会いと塩湖との遭遇は、未だに現実のものだったか信じ切れない心持ちなのだから。


「それから、往復の道筋とその洞窟の周囲をかなり調査してみましたが、オオカミの姿は見つけられませんでした。同行した猟師のディモの話では、近年としてあり得ない状況だということです。正確に数えたことはないが、例年通りなら数十頭単位で生息しているはず、ということで」

「やっぱり、オオカミの減少は現実のものと考えるべきか」


 この報告には、兄が険しい顔で応えた。

 それに、さらに深刻な顔でヘンリックは返す。


「由々しき事態と言えます。もしもオオカミが壊滅状態とするなら、森の中の自然の調和が崩れかねないという。具体的には、最近ウォルフ様たちの頑張りで野ウサギを二百羽以上狩ることができたわけですが、ディモの話ではそんな減少は一冬たたないうちに元に戻ってしまう、放っておくと来年の夏から秋頃に野ウサギの大発生が起きても不思議ない、ということです。

 とにかく、野ウサギは繁殖力の強い動物ですから。それがこれまではオオカミに食われる分と帳尻が合うようになっていたのが、一気に反動を見せることになるだろう、と」

「大変じゃないですか」

「何か、対抗策はないのか?」

「ディモの話では、難しいと。冬の間に、おそらく今の数倍の数に増えている。それから狩って数を減らそうとしても、おそらく追いつかない。事実上あのすばしこい野ウサギを狩れるのは、ウォルフ様とあと数人の猟師だけという現状ですから」

「というと、その増える前。今のうちにできる限り数を減らしておくしかないか」

「それも無理です。先ほどからまた、雪が降ってきました。雪が積もってからの森での狩りは危険すぎます。それより何より、野ウサギが出歩かないようになるので、狩りに行ってもほとんど無駄足にしかならないそうです」

「じゃあ、もう手遅れだというのか?」

「ディモには、打つ手の見当がつかないということです。旦那様とも相談して、何か野ウサギを減らす方法を他に探すしかないでしょう」

「うーむ……」

「私も昔の知り合いや文献を当たるなど、何とか模索してみます。しばらく猶予をいただきたいと存じます」

「……他に、しかたないか。くそ、オオカミの影響がそんなに大きいと知っていたら、もっと野ウサギを狩っておくんだった」

「ウォルフ、無理はいけません。あなたの身体の方が大事ですよ」

「……はい、母上」


 三人ともに、ほうと息を整えて。

 少し口調を改めて、ヘンリックは続けた。


「もう一つの件、セサミですが、やはりあの防護柵の周辺に群生している草がすべてあの黒い種を持っていると見て、まちがいないようです。本格的に雪が積もる前にすべて採取するよう、村の者に指示をしておきました」

「よし、それは朗報だな。一説には、セサミから油が採れるらしいという。大量に採取できるなら、そちらも試してみたい」

「でも、そんなに今全部採取してしまって、来年以降は大丈夫なのですか」

「ディモの話では、以前畑の傍で邪魔だったその草を、一斉に刈り取って燃やしてしまったことがあるが、次の年にはまた同じくらい生えてきた、ということです」

「そう、それならよかった」


 一息ついて、母はきゅうと胸に僕を抱きしめ直した。


「二人とも、今日はご苦労様でした。あと、疲れているところ悪いのだけれど、わたしの方から報告というか、相談というか、話しておきたいことがあります。今日の健康診断の結果で」

「え、何かまた、母上に悪いところでも?」

「いえ、わたしのことではなく。ルートルフの検診結果です」

「ルートの?」

「全体としての成長に問題はないのだけれど、少し足の生育に心配があるというのです。何でも、足の骨が少し柔らかく、このままだと立ち歩きに不自由したり、曲がったりの異常が出る恐れもある、と」

「え?」

「え?」


――え?


「なんで、そんな……」

「赤ん坊にときどき見られる傾向で、一部の栄養が不足したり、日に当たる時間が足りなかったりが原因と考えられる、と」

「ああ……今年の夏は、日照不足でしたな」

「ただルートルフの場合、まだ手遅れというわけでもなく、ただちに命に心配があるわけでもない、ということです。できるだけ日に当てるようにすることと、必要な栄養を含む食材を、今から離乳食として与えるようにするとよい、と」

「必要な食材――何です、母上?」

「それが難しくて、海の魚、海藻、鶏の卵の黄身……」

「うちの領地にないものばかりじゃないですか!」

「あと、キノコを日光で干したものを使ったスープ、というのですけど。これはどこかで手に入らないでしょうか」

「キノコ……森にないだろうか」

「以前は、森で何種類か採れていたと聞いたことがございます。最近はあまり目にしないのですが、何か事情があるものか、調べてみましょう」

「お願いしますね。あと魚や卵など、王都で手に入らないか、旦那様に問い合わせてみましょう」

「そうですね」


 三人、共に少しの間沈黙して。

 いきなり、

「くそお!」と、兄が天井を向いて叫んだ。


「俺が、馬鹿だった。母上や領民の健康のことをずっと心配してやってきたけど、いちばん心配すべきは赤ん坊だって、当たり前じゃないか! 何を考えていたんだ、俺!」

「ウォルフ、自分を責めてはいけません」


 母は手を伸ばして、兄の掌を握った。


「あなたは十分、よくやっています。母も領民も、感謝しています。ルートルフのことはあなたのせいじゃなく、わたしの責任の方がずっと大きいのです。あなたが自分を責めると、わたしは二倍悲しくなってしまいます。これからルートルフのためにどうするか、みんなで一緒に考えていきましょう」

「……はい、母上」


 ぐしぐしと、兄は目を擦る。


「最近あなたがよくルートルフの面倒見てくれて、おぶって歩いてくれたりしてるの、とっても嬉しいんですよ。これからもよろしくね、お兄ちゃん」

「……はい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る