第28話 赤ん坊、検診を受ける
最近では兄の夕食時に食堂で遊ばせてもらう形で、家人のみんなと交流することが多くなってきている。
母の健康回復の兆しから、夕食後の面会も前より長時間とれるようになり、ゆったり抱っこしてもらえる時間が増えた。
やっぱり母の抱っこは格別で、兄やベティーナには申し訳ないが、心地よさダントツナンバーワンだ。これからもこの時間が増えたら、と心から願う。
夕食の時間にベティーナから、僕の部屋の暖房をもっと考えたい、という提案があった。
食堂や母の部屋には暖炉が設置されていて終日弱めながらも火を絶やさないのだが、他の各自の部屋には火鉢のような暖房器具を必要に応じて持ち込むらしい。
とは言えこの家は、すでに赤ん坊の僕でさえ身に染みているほどの極貧生活だ。暖房費も極力抑えたい。
その事情は承知の上で、それでも赤ん坊を冷たい布団に入れるのは悲しい、というベティーナの言い分だった、
「それなら、ルートを俺の部屋で一緒に寝かせればいい」
そこへ兄が事もなげに提案して、一同が目を丸くした。
貴族の子どもは一人ずつ部屋を分けるのが常識、と考えられているのを覆す提案だというのが、一点。もう一つは、
「ウォルフ様、ルート様への態度が清々しいほどひっくり返りましたねえ」
歯に衣着せないベティーナの感想が、衆目一致の思いだったようだ。
何しろ、半月ほど前までは、顔を合わそうともしていなかったのだから。
「暖房費節約を考えているだけだ」
ぶす、と兄は鼻を鳴らした。
使用人一同は微笑ましい様子で、それに異を唱えることはしなかった。
貴族の常識云々よりも、ここでは節約の方が重要なのだ。
もちろん優先順位は外への見え方から考慮されるが、子どもの就寝状況などほとんどその点では問題にする必要はない。
僕の面会時に一度兄も顔を出して、その提案は母にも了承された。
というわけで、母の部屋から出てきたベティーナが食堂で僕を兄にバトンタッチしていると、裏口の方からウェスタが困惑顔で入ってきた。
「申し訳ありません、ウォルフ様」
「どうした」
「裏口の戸締まりをしていたら、その隙にザムが外に出ていってしまいました」
「そうなのか」
ふーむと考え、ちらとだけ膝の上の僕の顔を見る。
小さく頷き返すと、兄も頷いた。
「いや、もともと野生の動物なんだから、気にすることはないだろう。その気になれば戻ってくるだろうし、外で凍えることもないと思う。そのまま戸締まりしてしまっていいぞ」
「かしこまりました」
ただ一つ気掛かりなのは、村里に侵入して騒ぎを起こすことだが、ザムが一度言い聞かされたことを破る心配はない気がする。
それでなくてももう農民たちは寝ついている時間で、これより遅く出歩く者がいる可能性はほぼないのだ。
その夜は初めての出会いの二夜以来三度目、兄のベッドでひっついて眠ることになった。
何となく気恥ずかしい思いがないでもないけど、まちがいなく温かくてぐっすり眠ることができた。
朝はベティーナが二人一緒に起こしに来て、そのままそこで僕の着替えをする。
食堂がいちばん暖かいので、その後は兄と一緒に降りていく習慣になった。
降りていくといちばんに、ウェスタが「ザムが戻ってきた」と報告してきた。
「朝起きたら裏口のすぐ外に座ってて安心したんですけど、びっくりしてしまいました。口の周りや胸のあたりや、血だらけなんですもの。怪我しているわけではなかったので、ほっとしましたけど」
「つまり、他の何か野ウサギとか動物を食った痕なんだろうな」
「だと思いますね」
「なるほど、夜間外出の理由は、森へ狩りにいくことだったわけか」
この二日間のザムの食事は、野ウサギの内臓の他にゴロイモを与えても食べることが分かったので、その二本立てになっていた。内臓に限りがあるのでイモだけになっても、不満の様子はなかったという。
勝手に好意的に解釈するとこれは、肉の調達は自分でやるからふだんはイモだけでもよい、という彼の意思表明なのではないかと思う。
屋敷の裏手からは少し低地に降りて幅のある川を挟み、森につながっている。
その川があるせいとほとんど道がないので、人がこちらから森に行くことはないし野ウサギが侵入してくることもないのだが、ザムはそこを通り抜けることができるのだろう。防護柵のあるところを乗り越えるよりは、彼として現実的に思える。
ウェスタに血を拭ってもらって、今は武道部屋の寝床で満足げに丸まっているそうだ。
「これからも、あいつが出たがるようなら勝手に外に出してやって大丈夫なんじゃないか」
兄の結論に、一同頷いていた。
念のため後で確認しても、村の方で騒ぎを起こした形跡はまったくなかったので、安心した。
この日は予定通り、いつもと違うスケジュールになっていた。
屋敷では、昼前に到着予定の医者の出張診療に向けて、準備を進める。
ヘンリックは、森の調査のため村に向かう。
ベッセル先生の家庭教師は、休みということにしている。
村民たちの診療のため武道部屋を使うので、ザムは二階の僕の部屋に避難させた。
朝の九刻すぎ、初老の医者と若い男の助手の二人連れが到着した。
隣の領地から馬車で六刻ほどの道のりだということで、早朝に向こうを立ってきたらしい。
まず、寝室で母の診療。続いて、僕もそこへ連れていかれて健診を受けた。
母がかなり貧血症状の改善が見られる、と診断を受けたということで、明るい様子になっているのが嬉しい。
その後は、昼食を挟んで村民たちの診療だ。
兄もイズベルガやベティーナもその差配に駆り出されているので、僕はその間、母の寝室で胸に抱かれて待機することになった。
思いがけない、至福のひとときだった。
この居心地を思う存分堪能しようと思いながら、あまりの快適さに久しぶりの昼寝を満喫することになってしまった。ちょっと、無念だ。
夕方、医者一行を見送る。
兄の夕食が始まる頃になって、ヘンリックが帰宅した。
今日の報告をまとめて聞きたいと、夕食後、兄とヘンリックは一緒に母の部屋に呼ばれた。僕のことも、兄に抱いてくるようにという指示だ。
母は長椅子にかけていて、兄が抱いてきた僕を嬉しそうに受けとった。
「少し前までルートルフの抱っこもすぐ疲れてしまってたのに、今はこうして心配なくできるの。ウォルフやヘンリック、みんなのお陰ね」
「ここしばらくのことは、ほとんどみんなウォルフ様のなさった成果です。使用人や領民たちもすっかり明るさを取り戻しています」
「そう。ウォルフ、本当にお手柄ね。母は本当に誇りに思います」
「ありがとうございます」
母とヘンリックからの賛辞に、兄は決まり悪そうに会釈を返した。
ちらとこちらに寄越した視線は、僕への気遣いなのだろうけど。
僕のもらう褒賞としては、もうこれで十分なのだ。
別に、賛辞などいらない。たとえ褒美としてお金や食べ物をくれるといっても、今の僕には何の足しにもならない。
そんなものと比べるべくもない、母の抱擁の心地よさ。これに勝る至福などあり得ようか。いや、ない。
僕がほとんどとろとろと夢の世界へ溶け込もうとしている中、二人の報告が始まっていた。
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