第99話 赤ん坊、急襲に遭う

 こちらでも作業終了の頃合いになって、片づけが始まる。第二班の四人も、出発前にすべきことは無事終えたようだ。

 奥を片づけていたアルマが、振り返って声をかけてきた。


「ルートルフ様、これはどうしましょうか」

「ん?」


 差し上げられたのは、白っぽい紙の束だ。まあ、紙というより、はっきり言って失敗作。シロトロを持ち込む前に近くの素材で試作したものだ。

 質としては想定していたものと違ったのだが、何か利用法がないものかととっておいたもので。余裕ができたところで、少し考えてみてもいいかもしれない。


「なでぃね、それ、かえるときはこんで」

「かしこまりました」


 指示すると、ナディーネはアルマの抱えた一束を受けとっていた。

 版木彫りの見習いたちを見送り、孤児たちを整列させて終業の号令をかける。いつもは門番に任せていることも多いのだが、この日はヴァルターから一人一人に日当を手渡す儀式を行った。


「今日もご苦労様」

「はい、ありがとうございます!」


 ホルストを先頭に、皆満ち足りた笑顔だ。

 印刷製本担当の第三班は、見習いたちの習熟も目覚ましく、ここのところ続けざまに新しい本の完成を見て、いかにも満足げだ。

 一班の二人は、この日のうちに『洗濯挟み』の設計がほとんど出来上がったと、嬉しそうに報告してきた。ラグナは早々に工房へ戻って、バネ類の試作を始めているらしい。

 明日出発の四人には、僕からもう一度門出の激励を与える。


「じゃあほんとうに、しっかりがんばって。ぶじをいのってる」

「「「「頑張ります!」」」」


 ということで、一同を送り出す。

 僕とテティスはもしもの場合を慮って外に近寄らないが、ヴァルターとナディーネは門扉まで送っていった。


「元気で行ってきなさい」

「「「「はい!」」」」


 こちらから手を振ってやると、子どもたちも大きく振り返し。

 八人揃って元気よく、小走りに通りへ出ていった。

 少しその後ろ姿を目で追ってから、ヴァルターとナディーネがこちらへ向き戻る。

 そのとき、だった。


「わあ!」

「きゃーー!」


 外から、喚声が響き渡ってきた。

 慌てて、門の向こうに目を戻す。

 石畳の道を百マータほど先まで進んでいた子どもたちの列に、騒ぎが起こっていた。

 汚いなりの男が数人襲いかかって、イルジーとグイードが蹴り飛ばされている。

 続いて二人の男がそれぞれ、アルマとマーシャを捕まえ、抱え上げようとしている。

 離れていたホルストがそれに駆け寄ろうとして、これももう一人に殴り倒される。


「何だ、お前ら!」


 門近くに立っていたディーターと門番が、顔色を変えて外へ飛び出していく。

 こちらの傍にいた小柄な護衛も、急ぎ駆け出しかけた、が。


「シャームエル、動くな!」


 大声で、テティスがそれを制していた。


「あ――む、そうだな」


 険しい顔のまま、シャームエルは足を止めていた。

 当然、なのだ。

 彼らは僕の護衛なのだから、対象の傍を離れるなどあってはならない。

 もちろん、孤児たちの難を捨て置くわけにはいかないのだが。

 遠く眺める先で、女の子二人を抱え上げていた暴漢たちは、すぐに護衛兵に拘束されるのが見えていた。

 王太子や宰相とも打ち合わせたことだが、子どもたちの行き帰りには常に護衛兵が少し離れて監視をしているのだ。

 すぐにディーターと門番も追いつき、子どもたちの保護に入る。


「二人とも無事、救助されましたね」


 遠目の利くテティスが眉の上に掌をかざし、落ち着いて報告した。


「賊は三人のようで、全員捕縛された模様です」

「そ。よかった」

「しかし、何だったのでしょう。子どもたちを襲うなど――」

「オン!」


 シャームエルの言葉が、中途で遠ざかった。

 それどころか、目の前の光景が一瞬で大きく上下、振動していた。

 僕を乗せているザムが、いきなり跳躍したのだ。数マータ、後方へ。

 何だ、と驚愕していると。つい今し方までザムが立っていた地面に、妙なものが生えていた。

 銀色に光る、ナイフだ。

 続いて、すぐ目の前から金属音が響き出す。

 同じようなナイフを、テティスの剣が打ち落としていた。


「何者だ!」

「賊だ! 出会え!」


 テティスの誰何と同時に、シャームエルが王宮建物方向へ呼び立てる。

 そのときにはもう、新たな賊がこちらの目の前に姿を現していた。

 横手の畑方面から駆け出してきた、黒一色の装束の男が三人。十マータもない距離をとり、顔も布で覆って目だけをぎらつかせている。

 二人が両手に投げナイフらしいものを持ち、一人は剣を構えている。

 こちらでは、抜刀した護衛二人もザムも油断なく身構えて動きを止めていた。下手に動くとナイフが飛んでくると思われ、隙を見せることができないのだ。


「何者だ、貴様ら」

「………」


 重ねたテティスの誰何にも、声は返らない。

 そのような技量のない僕にさえ、めらめらとした殺気の張りつめが感じとれるほどだ。

 敵三人、こちら二人と一匹の間に、いかにも一触即発の緊張が満ち溢れる。

 この急襲、この距離の位置どり。数分もしないうちにこちらの加勢が駆けつけるはずの状況。まちがいなくナイフ使い二人は、王宮の精鋭護衛に対して呼吸を計りさえすれば瞬時に戦闘力を削ぐ自信を持っているのだろう。

 それを感じとっているのだろう、護衛二人は迂闊に動きをとれない様子だ。

 あの距離だと、『水』などの加護を届かせるにも少し遠い。

 二人と一匹が自由に迎撃できるためには、まず僕の安全確保が必要だろう。

 僕を乗せたザムが急ぎ後方へ逃走するのが最善なのだろうが、その瞬間に背中をナイフで狙われることになりかねない。

 僕が下に降りてさえいれば、この距離、おそらくまちがいなくザムはナイフをかい潜って投げ手一人を無力化できる。

 しかしその動きが生じた中で、もう一人のナイフがこちらの護衛一人の動きを奪う可能性がある。

 そうなるとあとは乱戦、勝敗の行方は予想できないし、何より僕が巻き込まれる恐れが十分にある。

 とにかく少なくとも、僕の存在がこちらの弱みになっている。

 いくらも経たないうちに王宮内から加勢が来るはずだ。稼ぐのは、わずかな時間だけでいい。


――南無三!


 思って、僕は行動に出た。

 ザムの立ったすぐ脇に、作業用の机が置かれている。身を投げ出して、その下に潜り込むのだ。少なくとも当座は、ナイフから身を守ることができる。

 背の軽くなったザムは、すぐこの机を守るように立ち位置を変えた。

 三人の賊はそれでも無言で、こちら二人の呼吸を計っているかのようだ。時おりぴく、ぴく、とナイフを持つ手が動きかける。数呼吸のうちに、護衛を排除する攻撃の機会を窺っているのだろう。

 すっかり机の下に潜ると、それらの様子はほぼ見えなくなり、全員の足元だけが視野に入ってきた。

 妙なことだが、三人の賊は靴を履かず、足に布を巻いただけのほとんど裸足だった。おそらく森を抜け、城壁を乗り越えて王宮内に侵入してきた。その壁越えのために靴が邪魔だったということか。

 全員の足が、じり、じり、と位置どりを調えるのが見える。

 やはり今の距離だと、飛道具の方が有利なのだろう。なお護衛二人は、迂闊に動けずにいるようだ。

 一方の賊たちは、間もなく王宮の加勢が来るだろうことを承知しているに違いない。今この瞬間にも攻撃に転じそうな気配だ。

 二人の投げ手が息を合わせてナイフを使ったら、こちらの護衛も無事で済まないかもしれない。


 僕自身は長々と考えていた感覚だけれど、敵味方が対峙してから、百を数えるほども経っていなかっただろう。

 間もなく、ナイフ使い一人の足が、一歩踏み出しを見せた。

 惑う余裕もなく、僕は地面すれすれに手を伸ばした。


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