第163話 赤ん坊、反芻する
「予想以上の速さだったな。一国の政権が変わるのに、ほぼ無血のまま終わったというのも信じがたい事実だ」
「ん」
同日、その報せを持って執務室を訪ねてきた王太子は、半ば呆然とした表情で溜息をついていた。
王制の国家で君主の意向に沿わない急激な政権交代が起こる場合には、ほぼそこにクーデターレベルの力による政変が伴う。従来の常識で、それが人的被害なしに終結するということは、なかなか考えにくいのだ。
今回はそれほどに、反対派勢力の結束と民衆の後押しが強かったということらしい。
特に首都を中心とした民衆の抗議の声は、これまでの歴史上類を見ない規模になったのだとか。
「今回の我が国への派兵自体、元首だった公爵の独断で、ごく近い者以外は知らされていなかったらしいからな。千人以上の死者を出した大惨敗という事実とともに広まって、一気に求心力を失ったらしい」
「ふうん」
「今のところ死者などを出す騒動にはなっていないという報告だが、最終的にはその公爵の処刑などに到ることも十分にありそうだ」
「そうなんだ」
その翌日には、ダンスクの新しい首脳となった侯爵からグートハイル王国に、会談を行いたいという連絡が入った。終戦に向けて賠償に応じるという意向だ。
まちがいなく国内向けには屈辱的な譲歩と伝わるのだろうが、前政権の失策の尻拭いということで押し通すのだろうと思われる。
リゲティ自治領の郊外に両国代表が赴き、他三カ国の使節も立ち会いのもと会談を行う方向で、話が進められているという。
次の日には早くも交渉の代表が派遣され、午過ぎ、父とともに宰相の部屋に呼ばれた。
このところまるで定例になったかのように、王太子も同席している。
一仕事終えたという表情で、宰相はいつになく深く椅子に凭れていた。
「かなり慌ただしかったが、これで今回の件も一応落ち着きを見るだろう。五カ国の代表で会談が行われ、我が国の主張がまずまちがいなく通されることになる。こうした協議で事前に楽観できることは通常あり得ないが、今回に限ってはほぼ話が覆ることはないはずだ」
「そうなのですか」
「ああ。駐ダンスクの公使とも十分に情報のやりとりを行うことができた結果、な。つくづく思うが、これだけの量の情報交換ができたというのも、通信に紙を使うことができた効用だな」
半ば嘆息のように息をつきながら、宰相は父に頷き返した。
風聞したところ、この数日はほぼひっきりなしに国王、王太子、三公爵で打ち合わせ、鳩便を飛ばし続けていたらしい。
今までに例を見ないほどそうしたトップ協議に参加することになったという王太子も、何処かやり遂げた疲労に包まれたという風情だ。
隣国から宣戦布告がされた当時ならともかく、二箇所での戦闘が大勝利に終わった後は、そうした協議もほぼ紛糾することなく話が進んだという。
宰相と王太子から出された提案が、ほぼ反論を受けることなく採用された。それらがすべて国にとって有利に運ぶ、なおかつ特定の領の利益に偏らないと理解されたということらしい。
これまでにも増してそれらに王太子が関わったというのは、一つは成人後の執務に慣れて信用を得てきていること。もう一つは、僕から発案された「壁新聞」などの新機軸を最も早く理解して説明できた、という理由によるものらしい。
何処か宰相以上に疲労の色を見せながら、王太子は深々と息をついた。
「本当に、ここまで怒濤のように隣国の政変が決着を見るとは思わなかったが」
「こう言っては何だが、我慢の沸点が低い国民性ですからな、あそこは」宰相が苦笑いを見せる。「外交も内政もうまくいっているうちはイケイケで突き進むが、へたな失敗を見せるとすぐに国民の不満が押さえきれなくなる。これまでの歴史を見ても、不満を募らせた民衆の後押しを受けた勢力がその時点の王族を根絶やしにしてきた、というくり返しです」
「そうだったな、確かに」
「それを思えば、ルートルフの『壁新聞』という発案は、これ以上なく的確な攻撃になったということだな、かの国には。我々には思いつきようもなかったが」
「うまくはまって、よかった」
「そういうことだな」
「今後紙の輸出拡大などで他国に普及が進んだ後も、こうした先端技術の優位は持ち続けたいもの」
ゆったりと数度頷き、宰相の視線がこちら向きに戻った。
「陛下もその辺りを思慮されている。ルートルフの叙爵後も、そこは変わらず励んでもらいたい」
「はあ」
思わず何気ない相鎚を返して、から。
「……は?」
「……は?」
父の剣呑な発声に、理解及ばないまま同調してしまっていた。
遅れて、かけられた言文を反芻する。
――今宰相、妙な単語を口にしなかったか?
「じょしゃく?」
「うむ」
「は?」
『叙爵=爵位を授けられること』だよな。
同音異義語、あるいは聞きまちがいでなければ。
「陛下と三公の意見が一致している。明日からルートルフは、男爵の身分になるな」
「へ?」
訳分からず、ふらふら視線を揺らめかすと。
斜め向かいで王太子が口元を押さえていた。
見るからに、笑いを堪える仕草だ。
「言っておくがルートルフ、拒否はできんぞ」
「そ、なの?」
「宰相の提案に、臨席者全員の賛同を見た。私はこうした評議の経験がそれほどないわけだが、言下に満場一致というのは、まああまり例を見ないということだ」
「……はあ」
「そもそも、ルートルフの成したことが、だ」やれやれという表情で、宰相は首筋を擦っている。「紙と印刷の開発による貿易収支改善、二箇所の戦闘を大勝利に結びつけた功績、どちらか一つだけでさえ前例に照らしても十分叙爵に値する。というよりもむしろ、これだけの功に報いるに、陞爵叙爵レベルのことがない前例を作るわけにはいかない、と受け止められることになろう」
「……へええ」気の抜けた声を返して、首を傾げてしまう。「せんとう、すこしくちをだしただけ、だけど」
「戦闘結果では無論、臨戦した者たちに褒賞が与えられるがな。最も大きな功は当然、立策、指示を出した者にある」
「はあ」
「そもあの戦、歴史に残る大勝利と言っていいのだぞ。合わせて一万五千の敵軍を、味方はほぼ無傷で壊走させたなど」
「そ……なんだ」
まあ、言われてみれば、そういうことになるか。
しかしそうは言われても、まったく実感が伴わない。
僕に貴族の常識がないから、というだけでもないと思う。
さっきから、僕の腹に回した父の手が硬直、微動もしなくなっているのだ。
宰相の目が、その父の顔に向き直ったようだ。
「いやこれらの功績も十分とはいえ、本来ならばまだ叙爵決定には尚早。貿易収支もさらに今後の経過を見るべきであろうし、戦闘もこれから終息に向けた会談が行われるところでまだ決着を見たわけではない。これらの結果を待って遅くはないであろう。しかしなベルシュマン、今これを決定するのは、ルートルフにとって大きな意味を持つのだ」
「はあ……そう、ですか」
「ルートルフの身を守る意味で、だな。今の子爵次男という立場と男爵家当主では、意味合いがまったく違う。もしまた先日のようにルートルフの身柄をダンスクが狙うようなことが起きれば、これは国際的大問題になる。即刻、友好三カ国で連携してかの国に進軍したとして、名分が立つだろう。他国の貴族本人を害するということは、それだけの意味を持つ。少なくとも外交的に、それだけの意味を持たせることが可能になる。相手としても、そう易々と決行するわけにはいかぬだろう」
「……ああ」
「だからこそ、陛下と三公の間で見解が一致した。できるだけ早くルートルフの新しい立場を公表して、これ以上の暴挙がくり返されないように計らう。叙爵の式典など諸々は後回しにしても、とにかく手続き上公式に決定して、四カ国に向けても通知を出す。普通、一貴族の叙爵程度を他国に通知する必要もないわけだが、今回に限っては今言ったような意味で、紙の開発者が我が国の爵位を持つということを周知することは有用だろう」
「終戦の協定調印の前に、また形振り構わず紙の開発者の拘束で少しでも状況を改善しておきたい、と考える者もいる可能性はある。事前に大きな釘を刺しておく、という意味合いだな」
宰相の説明に、王太子も補足した。
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