第8話 赤ん坊、勉強する 2

「まあしかし、いくら利口なお子様でもさすがにこの勉強内容まで食いついているわけではないでしょう。どちらかというとお兄様の真剣な様子に憧れて、真似したいと思っているかというところだと思いますよ」

「ああ、ありますよねえ。小さな子どもが大人や大きな子どもの真似したがるというの」

「さすがに六ヶ月の赤子でそういう例を見た経験はありませんが、弟君の利発さからすると、あり得るかもしれません」

「それならなおさらウォルフ様、頑張っていいところを見せないと」

「……おお」


 兄に笑いかけてから、ベティーナは少し考えて、先生の方に向き直った。


「じゃあじゃあ先生、お兄様を真似した『勉強ごっこ』なら、ルート様も気に入るかもしれませんね」

「そうですね」

「試してみましょうか。どんなのがいいでしょうね」

「そう……さすがに今ウォルフ様が取り組んでいる計算練習は、合わないでしょうしね」


 考え込む先生の顔から、そっと僕は視線を外した。

 まさか逆の意味でレベルが合わないなど、口が裂けても言えない。


「ああ、あれはどうですか。去年ベティーナ嬢に差し上げた、基礎文字表。まだ持っていますか」

「ああ!」

 ぽん、とベティーナは手を叩いた。

「持ってます、まだ部屋にあります。いいですね、あれなら壊れないし危ないことないし、汚れても大丈夫だし」

「ですよね」

「今とってきます! 少しの間、ルート様をお願いします」


 僕を椅子に残して、ベティーナは慌ただしく駆け出していった。

 すぐに持ち帰ってきたのは、小さなベティーナにとって一抱えほどの大きさの木の板だ。

 机に置いたその表面に、規則正しく文字が並んでいる。

 覗き込んで、僕は目を瞠った。


――! これはもしかして――


「いいでしょう、ルート様? これで、基礎文字が全部覚えられるんですよ」


『五十音表』という言葉が、頭をよぎった。

 思わず、ぱたぱたと両手で板の表面を叩く。

 それからずいと、先生の前へ向けて板を押し出す。


「先生に、先生役をしてもらいたいみたいですよ」

「これはこれは」


 苦笑しながら、先生も少し乗ってくれる気になったみたいだ。


「いいですか、ルートルフ君。これは基礎文字表と言いまして、今使われている我々の言葉は、原則すべて、この文字で表すことができます」


『ごっこ遊び』の乗りではあるけど、そこは本職の先生、一応正確な内容の講義を試みてくれているようだ。

 ものすごく興味惹かれる説明、だけど。

 さすがに赤ん坊が本気で食いついてみせるのは、異常すぎる。

 適度にぱたぱた板を叩き、きゃっきゃとはしゃぎ声を上げ、遊びの形を作りながら僕はその説明を頭に入れていった。


 それによると。

 この世界の文字は、一音ごとに一つずつの基礎文字が割り振られている。その文字を繋げて表すことで、すべての言葉はこれらの文字で表現できる。

『つまり五十音の平仮名のようなもの』と『記憶』が囁く。

 この他に、物の名前などを表す言葉(名詞)を一文字や二文字で表現する複雑文字も存在するが、現代では難しいものは古語の研究やかなり格式張った文書でしか使われない。世に出回っているほとんどの文章は、基礎文字にごく簡単な複雑文字を混ぜた程度で表現されている。

 よって、この基礎文字をすべて覚えておけば、ほとんどの文章、その大半の意味を読みとることができるのである。


 そのあたりで一区切りとして、先生は説明を切った。

 しかし僕にとって、十分すぎる情報だ。

 さすがに兄の先生をずっと独占するわけにはいかない。

 ずいと板を引き戻して、僕を膝に乗せたベティーナの顔を見上げる。

 意味を察したらしく、ベティーナは笑った。


「あ、じゃあわたしが先生役をしますね」


 期待した通り、引き継いでくれた。


「いいですか、これがルート様の『る』」


 一文字ずつ指でさして、読み方を教えてくれる。これも、期待した通り。

 やはり、ぱたぱた、きゃっきゃ、を続けながら、僕は内心必死にその説明を頭に刻んでいった。

 僕のご機嫌が嬉しかったのだろう、ベティーナは結局すべての文字の読みを教えてくれた。


 そうしているうちに、兄は計算練習を終わって別の教科に移ったようだ。

 先生との間に、また別の図や文字が書かれた板が広げられている。どうも、地図のようだ。

 これにも大いに興味が惹かれる。けれど、さすがにあからさまに覗き込むのは控えた。

 耳を傾けると、妙に深刻な調子の会話がされている。


「やっぱりありませんか、うまい方法」

「うーん、どうしても、クロアオソウは夏から秋の野菜だからねえ。地熱はいい観点だと思うんだけど」

「何とかなりませんか、今うまくいかないと、間に合わないかもしれないんです」

「焦るのは分かるんだけどね。知り合いに訊いてもやっぱりうまい文献はないんです」

「そうですか……」


 勉強というよりは相談? まるで難しい研究を論じているかのようだ。

 地図のあちこちを指さし確認して、先生と生徒はひとしきり唸り、口を閉じてしまった。

 それから、示し合わせたみたいな大きな溜息。


「あれもこれも、行き詰まりですか。北がダメなら、あとは東。でもこっちの森も……」

「あの野ウサギってやつも、難物だねえ。いったいどうなっているんだか」


 二人の指の動きを、目で追う。ここの地図でも上は北なんだ、と変な納得をしてしまう。

 そのうち地図に大きく書かれた文字に気づいて、僕はますます関心を惹かれていた。

 さっき覚えた文字によると、それは『ベルシュマン男爵領』と読めるのだ。

 どうも、うちの領地の現状について論議しているらしい。

 ベティーナも気がついたらしく、二人の顔を見比べた。


「野ウサギ? 東の森のですか?」

「ああ。ベティーナも聞いているか? 野ウサギが異常に増えているっての」

「あ、はい。村の人が言っていたような」

「それなんだけどね」先生が顔をしかめた。「地理の課題としてウォルフ様に領地の農業について調べるように言ったらね、深刻な事態が見えてきた。近年不作気味なのはよく知られているけど、これ気候のせいだけじゃなく、森で増えた野ウサギに食われる害も大きいみたいなんです」

「そうなんですか?」

「原因はよく分からないんだけど、確実に数はかなり増えている。知っての通りここの野ウサギは異常なくらいすばしこくて、農業兼業の村の猟師ではほとんど弓で狩ることができない。罠をしかけても結果は微々たるもの。このままでは来年は飛躍的に農業被害が増える予想が立ってしまう」

「それだけじゃない」兄が口を入れた。「今年の不作の状況だと、冬の間に餓死者が出ても不思議じゃないほどなんだ。その対策のためにも、うちの母上のためにも、野ウサギの肉を食用に活かしたいんだけど、うまい方法が見つからないんだ」

「餓死者って――大変じゃないですかあ。でもでもあれ、こういう不作のときって、よそへ出稼ぎに出たりしてしのぐものなんですよね?」

「それが、去年あたりから、これも原因は分からないんだけど、うちの領民はほとんどよそで雇ってもらえなくなっているらしいんだ」

「そんな、どうしてえ?」

「分からない。どうも父上は見当をつけているみたいなんだけど、打つ手なし。少なくとも今年の冬には間に合いそうにないらしい。だからこちらとしては、うちの主要作物のクロアオソウの増産と野ウサギ狩りの方法について検討しているんだけど、どうもうまい手が見つからない」

「どちらももう、村の人がさんざん考えているでしょうからねえ」

「だよなあ」

「それと、あれ、さっき、奥様のためにもって言いました?」

「ああ。母上の病は血が足りないことから来ているらしいんだけど、野生動物の肉や内臓が治療に効くらしいんだ」

「そうなんですかあ。そう言えば奥様、贅沢はできないって仰って、肉なんかあまりお召し上がりにならないですものね」

「俺が狩りの方法を見つけて、領民にも肉が渡るようにすれば、母上も食べてくれると思うんだよなあ」

「ですねえ、きっと」


 みんなで溜息をつき合っても、ここで良案は浮かばない。

 地理の勉強も切り上げて、兄は剣の稽古だと立ち上がっていた。

 ベッセル先生は武道が得意ではないが昔学院で習った程度の経験はあって、型を見るくらいの指導はできるらしい。

 とりあえず兄はトレーニングスケジュールを組んでもらって、素振りを中心に汗を流すのだという。

 奥に立っていった兄は、さっそく木刀を持って素振りを開始していた。

 先生とベティーナはかなり真剣にそれを眺めている。

 その隙に。僕はそっとさっきの地図を引き寄せて、目を凝らした。


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