第9話 赤ん坊、勉強する 3
うちの領地――地図の縮尺はないけど、おそらくかなり、狭い。
北と西には山が迫り、さっき話題に出ていたように東は結構広い森。その向こうは他領ということだろう。
領地の南端にこの屋敷があり、それより北はすべて領民の家と農地。ここより南はすぐ他領、そのまま進むと王都へ続く。
おそらく王国内でも北の果てと言っていい立地なのだろうと思われる。
地図の端に書かれたいくつかの数字は、長さとかだとしたら、単位を知らないので分からない。ただ一つ分かったのは『214人』という記述。おそらく、領の人口だろう。
――214人――少な!
税などどういう仕組みになっているか知らないけれど、この人数から徴収した税金だけで男爵家の経営ができるとは、なかなか思えない。
おそらくそれだから、父は出稼ぎ状態で領地にいる暇がないのだろう。
領民から税をとるどころか、兄によるとこの214人の中に餓死者が出ないか心配しなければならない状況だというのだ。
――わあ、かなりの無理ゲー。
何だか訳の分からない単語が、胸に浮かんできた。
規定の素振り回数を終えたらしい兄は、次に弓を持ち出していた。
弓を引き絞る態勢を作って、しばらく静止。また形を作り直して、静止。それを何度かくり返す。
持続力とか、的中率を高めるための練習だろうか、と思う。
そちらを見ながら、ベティーナが横の先生に問いかけた。
「ウォルフ様は、剣士志望じゃなかったんですか?」
「そうだったんだが、少し前から弓も鍛えたいと言い出しているんだ。おそらく、さっきの野ウサギ狩りを想定してのことだと思う」
「そうなんですか」
「それにウォルフ様の加護は『風』だからね。弓と相性がいい。うまく使えば的中率や矢の威力を高めることができる」
「へええ」
その辺の理屈は分からないけど。ただ、思った。
――弓を構えた兄上、格好いい。
本当に、領民と母上のための野ウサギ狩り、成功してほしいと思う。
何か協力できることはないか、と考えて、すぐに挫折した。
今の僕のこの手で、弓も剣も持つことさえできないのだ。
何年かの猶予があるならともかく、この冬のうちがデッドラインでは、僕にどうしようもない。
一通りの座学と運動の指導を終えて、先生は帰っていった。
久しぶりに勉強の場に参加して少し興奮したらしく、ベティーナは昼食をとる兄の傍でいろいろ話しかけていた。
ついでに僕の昼食も、隣のキッチンにいた乳母に済ませてもらう。
昼食後、兄はいつもの日課で外回りだと、外出していく。
いつもなら昼寝をしていることが多い時間だけれど、僕はベティーナを促してさっきの勉強部屋もとい『武道部屋』に連れていってもらった。
さっきのまま机に広げられた基礎文字表の板に手を伸ばすと、勉強ごっこの続きでベティーナはまたその読みを教えてくれた。
復習にはなるけど、ほぼちゃんと覚えることができている。
もう一つやりたいことをどうやって実現するか、頭の隅で考えていると、
「ベティーナ、ちょっと頼める?」
向かいのキッチンの方から、ウェスタが声をかけてきた。
はあい、と応えて、ベティーナは僕が座る場所の安全を確かめた。
「ちょっとここでお待ちいただけますか。あまり動かないでくださいね」
「うー」
ご機嫌に返事すると、安心したようだ。
子守りが出ていくのを確かめて、行動に移る。
さっきまで先生が座っていた席の後ろが小さな本棚になっていて、木の板を束ねた本のようなものが数冊あるのが気になっていたのだ。
基礎文字を覚えられたことだし、どの程度読めるものか、確かめたい。
開いた本は、手書きの植物図鑑らしきものだった。
しばらくの間、ベティーナが戻ってくるまでに、いくつか情報を得ることができた。
「あれ、ルート様、どこですか?」
「うー」
「え、あれ、今度は読書ごっこですか?」
「うー」
「この本は、まだルート様には無理ですよ。それに、汚したら怒られちゃいます。ないないしましょうね」
まだ心残りだが、無理を言うことはできない。
そのまま抱き上げられて、僕は昼寝のために部屋に連れ戻された。
夜。
また僕は、無事部屋から這い出しに成功した。
暗い廊下。しかし、何ものかの気配。
そちらへ向けて、ひたすら直進する。
「こら、寄るなって言うのに」
かけられた声は、無視。
その脚に、力一杯しがみつく。
あまり気の入らない振り払いにも抗って、絶対放さじとしがみつく。
これ見よがしの溜息の後、僕は、よいしょと抱き上げられた。
僕の部屋へ向かう。
と見るや、「ふえ、ふえ……」とむずかり声。
もう一度、大きな溜息。諦めの歩調は、二つ離れた自室へ向かう。
大きなベッドに抱え込まれ。
安心の匂いに包まれて、僕は熟睡に沈んでいった。
朝、起こしに来たベティーナと兄の間に、前日と同様の会話が再現された。
「こいつに言い聞かせろ。昼間少しは相手してやるから、夜這いに来るのはやめろと」
「そんな具体的な言い聞かせ、わたしだってできませんよお」
「マジかよ、くそ」
その日も、僕は兄の勉強の場に参加させてもらった。
まあとりあえず、基礎文字表で勉強ごっこに興じている様子を見せると、みんなが安心するのだ。
兄の勉強、やはり計算は初級。
地理の勉強として、また深刻な相談がされる。
兄も先生も午後からそれぞれ農地や森を見て回ったが、やはり打開策は見えない、と報告し合っている。
勉強を終えて昼食後、約束を守って兄は、二刻ほど勉強ごっこにつき合ってくれた。
その後で、また外出していく。
窓から覗くと、屋敷の裏手に向かう兄の姿が見えて、少し気になった。
その日は、ささやかな勝利を噛みしめて、僕は夜の冒険をやめにした。
そのまた次の日も、同じような過ごし方になった。
勉強を終えて昼食の後、僕とごっこ遊び。
その後で、兄はまた外出。
前の日と同じ方向へその姿が消えるのを確かめて、僕は急いで部屋に戻るようにベティーナを促した。
部屋に入ると、「うーうー」と窓を指さし、開いてもらう。
全面木製の窓は、開かないと外が見えないのだ。
「寒くないですかあ」
首を傾げながら、それでもベティーナは従ってくれた。
開いた外は、裏庭に向かっている。ほとんど裏の森に飲まれそうな位置に、ごく小さな小屋が建っていた。
タイミングよく、そこへ向かう人の姿が二階から見下ろせた。
「あれ? あれウォルフ様じゃないですか」
「うーうー」
兄が小屋の中に入るのを確かめて、僕はベティーナの腕をぱふぱふ叩いた。
「え、え? お兄様のところ行きたいんですかあ? でも、外……」
ひとしきり考え込んで、「まあ庭ならいいか」とベティーナは頷いた。
季節はかなり冬に近づいているところなので、念のためにと厚い上着を着せられる。
さらに抱いたベティーナが上からマントのようなものを羽織って、裏口から連れ出してくれた。
空には厚い雲がかかっていて、まだ午後早い時間なのに暗くなってきている。
森近くでさらに木陰の暗がりに覆われかけた小屋に、ベティーナは小走りに寄っていった。
入口を覗いた、その拍子に中から出てきた少年と鉢合わせになって、
「きゃ」
「わ、何だ、お前――って、ベティーナじゃねえか」
僕には初対面になると思われる少年は、ベティーナと知り合いだったようだ。
「アヒム? あんたここで何してんの?」
「ウォルフ様の手伝いだけど? お前こそ何だよ」
「何だ、どうした?」
「って、リヌスも?」
続いて出てきた同年代の少年にも、ベティーナは丸くした目を向けた。
似通った年格好なので幼なじみとかいうことになるのだろう、と判断して僕が三人を見比べていると、小屋の奥から兄が入口へ寄ってきた。
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