第64話 赤ん坊、王子を考える

 見送って、ふうう、とテティスは大きな息をついていた。


「申し訳ありませんルートルフ様、不覚をとってしまい」

「まさかあのような抜け道があるとは」

「まったく気づきませんでした」


 寄ってくるシャームエルとディーターも、ほとほと疲れ切った表情だ。


――まあ、そうだろうなあ。


 子どもか小動物しか通れないほどの、わずかな隙間なのだ。不審者の接近警戒をしていたとしても、進入経路の対象にはならなかっただろう。

 まして王宮内で、赤ん坊を攫う幼児の存在など、想定のしようもないはずだ。


「あのおうじでんか、しってた?」


 二人に訊ねると、


「お名前だけは。お顔を拝見するのは初めてです」と、シャームエル。

「お名前さえ知りませんでした」とディーター。


 王宮の護衛職でもその程度の認知度という、希少な存在だったらしい。

 ましてや二人とも「お身体が弱いと聞いていました」ということで、さっきの本人の健勝ぶりを目にして、信じられない思いばかりのようだ。


「それにしても、ルートルフ様をここにお連れして、何をなさっていたのですか」


 テティスの問いにも、ほとんど答えようがない。


「はなのなまえおしえてくれて、ざむがとぶのみてよろこんでた」

「何ですか、それは」

「わかんない」


 はああ、と全員で首を傾げて、溜息をつき合う。

 とにかくも大事なくてよかったと慰め合い、帰路を求めて小川沿いを覗いた。

 川の向こう側はすぐ森、こちら側は建物との間の狭い草地を辿って元の裏庭に続くらしい。

 両岸を見比べて、思い出した。


「ててす、ながいかわひも、もってる?」

「はい、ありますが」

「かして」


 十マータ程度はありそうな細い紐の一端を、ザムに咥えさせる。

 そのまま指示すると、ザムは軽々と小川を跳び越え、向こう岸に着地した。テティスにはその状態で、踏切をした足跡の箇所で革紐に印をつけさせる。

 戻ってきたザムから革紐を受け取り、咥えた箇所から印までの長さを測ってもらった。

 テティスの持っている一マータの革紐で、マータ単位と百ミマータの目盛りいくつ分かまでを測定できるはずだ。


「六マータと八百ミマータ、あと少しですね」

「6・8まーた、ということだね」

「そうですね――あ、さっき王子殿下の言ってらした数字、ですか?」

「ん」

「ザムの跳んだ距離を、即座に目測で出していらしたと?」

「かも」

「しかしそりゃ、無理でしょう」シャームエルが笑った。「およそ何マータか、ぐらいならともかく。〇・何マータかまでなんて、後ろから見ていてすぐ分かるはずはありません。当てずっぽうならともかく」

「だよね。でも」

「何ですか?」

「しゃむえる、7・4たす6・9たす7・1たす6・8は、いくら?」

「え、え――いや、すぐには……」

「28・2」

「え、え?」

「あのでんか、すぐこたえだしてた」

「本当ですか?」

「わかんない、けど」


 偶然かもしれないが、確かに王子は口に出していたのだ。ふつうの大人が計算盤なしにはできない小数の合計を、ほぼ即座に。

 うーむ、と首を傾げながら、ザムに跨がり直す。

 ディーターを先頭に、川の縁を辿って元の裏庭へ戻った。

 さっき僕が拉致された地点へ来て、ディーターは苦い顔で建物の下部を覗き込んだ。


「本当に、こんなところに隙間があったんですねえ。このままにしておくわけにもいかない。王宮庁の者に報告して修繕させましょう」

「ん」

「もしかすると、他にもこんなのがあるのかもしれませんね。さっきの侍女たちの口ぶりじゃ、あの殿下、しょっちゅう行方をくらましているようじゃないですか」

「だな」


 シャームエルの指摘に、テティスも頷き返している。

 その点も含めて王宮庁への報告は二人に任せると打ち合わせて、僕は部屋に戻ることにした。

 この日の目的だったザムの運動は、十分に果たせただろう。


 部屋に戻ると、侍女三人は書き物テーブルで字の練習をしていたという。

 要望通り、女官長がテーブルを揃えてくれたようだ。

 ザムを床に寝そべらせ、僕はその脇で寛ぎ態勢を作った。

 テティスが王子に出会った話をすると、三人は首を傾げている。

 誰も、王子本人の顔を見たことがないらしいのだ。

 三人とも後宮の職に就いて半年程度らしいので不思議はないのかもしれないが、やはり希少な存在ということでまちがいないのだろう。

 ナディーネとカティンカは、王子の名前も知らなかったという。

 残るメヒティルトは、少しためらいの様子で発言した。


「その……侍女たちの噂話で、ちょっと聞いたことあり、ますです。何て言うかその……少し、おつむ……いえ何て言うんでした、お知恵の発達? 遅くていらっしゃるので、人前に出ていらっしゃらないのだとか」

「ふうん、なるほど」


 頷いて、テティスが僕の顔を見る。

 ザムの腹を撫でながら、僕も数度頷いた。

 真偽のほどはともかく、周囲の腫れ物扱いふうの様子は、納得できる気がする。


 この話は、推測ばかりを深めても意味ないので、それくらいにする。

 話題を変えて、侍女たちの手習いを見せてもらった。

「ルートルフ様は綺麗な字を喜ばれる」と同僚たちに聞いて、メヒティルトも張り切って練習を始めたという。

 ナディーネとカティンカの手跡はヴァルターを見本にますますしっかりしてきて、図鑑や専門文献の書写にふさわしく見える。

 一方のメヒティルトの優しい文字は、神話やお伽噺のようなものに向いている気がする。

 そういう感想を口にすると、「お伽噺とか、好きですう」とメヒティルトは笑顔を輝かせた。

 侍女たちの大部屋で、夜などに年上の者が地方の言い伝えの話をしてくれることがあるのだそうだ。

 ただ、そんな話を本にしたものは見たことがない、とテティスも含めて全員が首を傾げている。

 そもそも本というものの絶対数が少なく高価なので、そんな子どもの寝かしつけ用途や娯楽用のものなど、まず存在していないのだろう。

「教会にならもしかすると、そんなものもあるかもしれませんね」と、テティスが自信なさそうに言っている。


「そんな、きいたおとぎばなし、めひてると、ぶんにできない?」


 訊ねてみると、困ったように首を傾げている。

 聞いた話の概略は覚えていても、文章にまとめる自信はないという。

 文字は書けても文を作るのはせいぜい手紙か覚え書き程度で、それ以上の経験はないらしい。


――まあ、誰もがそんな程度なんだろうな。


 今後は、そういった種類の書き物も増やしていければと思う。

 とにかくもまず、ペンとインクでの筆記に慣れるようこのまま練習を続けてもらいたい、と三人を励ましておく。


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