第63話 赤ん坊、王子と話す

 石に腰を下ろしたまま、僕はそちらへ問いかけた。


「いりばると」

「ん? ん?」

「ここ、どこ?」

「ん、外」

「そとの、どこ?」

「花壇」


 質問しても、明確な答えは返ってこない。

 この点、他人のことは言えたものではないけれど、なかなか文章にならないぶつ切れの単語ばかりだ。

 改めて見回す限り、王宮の中庭、と表現してまちがいのない場所と思われる。

 すぐ外が裏の森、建物に窓が少ないところから見て、後宮のさらに奥、北の端に当たるところだろう。

 ほとんど雑草ばかりの空間に小さく作られた花壇は、辛うじて建物に陽射しを遮られない場所どりを選ばれたと推測される。

 さっきまでいた、裏門から森に至る途中に見えていた豪奢な花壇に比べると、かなりこぢんまりとした印象だ。

 この推定王子の私物なのだろうか。

 そんなことを考えていると、やや遠くから馴染みのある声が聞こえた。


「ウォン」


 見ると、小川の向こう、森の奥から白銀の固まりが駆けてくる。

 凄まじい勢いで見る見る近づき、一息で川を飛び越え。

 そのまま速度を緩めず、花壇のこちら側へ。


「ざむ、とまれ!」


 放っておくと王子に食らいつきそうな勢いだったので、僕は手を伸ばして止めた。

 地面に前足をめり込ませそうにしながら突進を止め、やや向きを変えてザムは僕の傍らに身を伏せた。

 ウィリバルトは、目をまん丸にしてそれを凝視している。


「すご、すご、何?」

「ざむ。おおかみ」

「すご、すご、すご――」


 大人しくなったザムと、今来た小川と森の方を、交互に見比べている。

 興奮の様子で、しきりと指さし、動かし。


「すご、すご、飛んだ」

「ん。あれくらい、とびこえる」

「すご、すご」


 ばたばたと、小川の縁へと駆け寄っていった。

 しかたなく僕も、ザムを連れてとことこ追っていく。

 王子の指は、何度も川向こうとこちらをさし比べ、往復した。


「飛んだ、飛んだ」

「ん」

「もっかい、もっかい」


 僕の肩を掴まんばかりの勢いで、指の往復を見せつけるのだ。

 しょうがない、とぼくはザムに指示した。

 小川を跳び越えて向こう岸へ。それからすぐに、戻ってくるように。

 心得て、ザムは駆け出した。

 助走をつけて、軽々と跳躍。余裕を持って向こう岸に着地する。

 目を輝かせて、王子は手を叩いた。


「すご、すご、七・四」

「は?」


――何だ、その小数は? 


『飛型点かよ』と頭に響く声があったが、意味不明。あえて追及する気も起きない。

 すぐに回れ右して、ザムは再び宙に躍った。

 軽やかな足音を立てて、僕の傍へ戻ってくる。


「すご、すご、六・九」

「なにそれ?」


 問い返しても答えることなく、王子はザムに手を伸ばしてきた。

 ウウ、と唸り返す、その鼻先に手を入れて、僕は止める。


「さわっちゃ、だめ」

「ダメ?」

「おこる」

「そう?」

「ん」

「なら、もっかい、もっかい」


 めげる様子もなく、また指先を往復させるのだ。

 どうするか、と考えていると。


「ルートルフ様!」


 小川脇の建物の陰から、焦燥の態でテティスが姿を現した。後ろから、シャームエルが続いてくる。

 ザムを追って、建物を大回りしてきたのだろう。


「ルートルフ様、ご無事ですか?」

「ん、だいじょぶ」

「えーと、こちらは……」


 少年の身なりを見て、護衛たちも粗方を察したようだ。

 どうしてよいか分からない様子で、距離をとって立ちつくしている。

 一方の推定王子は、護衛たちをちらり見ただけで意に介さず、指先往復をくり返していた。


「もっかい、もっかい」

「これ、おわり、だよ」


 嘆息して、僕はザムの背を叩いた。

 嫌がる素振りはなく、オオカミは疾走を始めた。

 小川の縁で、跳躍。


「すご、七・一」


 転回して、すぐに跳び戻る。


「すご、すご、六・八」


 ぱちぱち手を叩いて、王子はご満悦だ。

 僕の脇に戻ったザムにまた手を伸ばすのを、止めなければならなかった。


「もっかい、もっかい」

「もう、おわり」

「すご、すご」

「うん、すごいよね」

「すご、二十八・二」

「え?」


 また妙な数が飛び出してきて、顔を見直してしまう。

 さらに手を伸ばしてくるのに危険なものを感じて、僕はさっとザムの背に跨がった。

 ひう、と王子は甲高く息を呑む音を立てた。


「すご、いい、それ」

「さわっちゃだめ」

「いい、いい」


 護衛たちの方へザムを歩かせると、ぱたぱた追いすがってくる。


「いい、それ」

「もう、おわり。ばいばい」

「いい、いい」


 困ったな、と思っていると、人声が聞こえてきた。

 テティスたちとは逆側の建物陰から、女性が数人姿を見せる。侍女が二人、護衛職が二人、のようだ。


「殿下、こちらでしたか、またいつの間にかお一人で――」

「え、え、何? オオカミ?」

「殿下、近寄ってはなりません!」

「お前たち、殿下に何をしている?」


 口々の言い立てに、苦い顔のテティスが寄ってきて、ザムを押さえた。

 僕を背に庇って、王子の側付きらしい一行に声を返す。


「そちらの殿下が、勝手に近寄っていらしたのだ。引きとってくれ」

「勝手にとは、何という――」

「あちらの裏庭からここまで、そこの建物の隙間をくぐってルートルフ様を連れてきてしまわれた。そこの隙間、何とかした方がいいと思うぞ」

「本当か、それは?」

「うむ。見てみろ、そこ」


 問い返した女性護衛は、テティスと顔見知りだったようだ。

 頷き合いながら、指し示された建物の角下を覗き込んでいる。

 一方で侍女たちは、王子の手を取って元来た方へ戻ろうとしていた。


「さあウィリバルト殿下、帰りましょう」

「や、や、あれ、いい」

「ダメです、ばばっちいですよ」


 ぐずる王子を引いて、たちまち建物陰に姿を消していった。

 護衛二人もすぐ後を追っていく。


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