第62話 赤ん坊、回転する

 各地から取り寄せた数種類の植物見本を植えた畑を、見て回る。

 キマメもキナバナも、植え替えられてしっかり根づいているようだ。

 キナバナは、もう少し種が熟するまで見ることができるだろうか。

 一方の豆は――と触れていると、離れてシャームエルが声をかけてきた。


「それ、キマメですよね、うちの故郷にもありました。豆の収穫までは、もうしばらくですか」

「ん」


 従来の豆の収穫まではまだ時が必要だが、青い豆として食用にするならそろそろ限界かもしれない。あるだけ摘み取らせてクヌートに調理させようか、と思案する。

 その他の香草の類いは、あまり成長が見られないようだ。この程度で見切りをつけて、実用を試すべきか。

『サツマイモ』に近いかもしれないシロカオバナは、どの程度まで成長を待つべきだろうか。

 いろいろ考えていて、周囲への注意を忘れていた、ようだ。

 次の瞬間、いきなり上がった奇声に、心の底から驚かされてしまった。


「きーー、ききき、き!」

「え?」


 何かの獣の声か、と顔を上げると。

 つい今し方までまったく検知していなかったものが、すぐ傍にいた。

 鮮やかな金髪の、まだ幼児と言えそうな少年だ。

 曇りのない笑顔のまま奇声を続け、たちまちこちらに肉薄してくる。


「あ、おい、何だ?」

「ルートルフ様!」


 少し離れたシャームエルとテティスが声を上げ、駆け寄ろうとする。

 その姿を捉える間もなく、僕の視界は回転していた。

 九十度かそこら回ってか、目の前には土の地面。

 さほど大きくない手に胴体を抱えられ、移動が始まっている。


「わ、わ、わ――なに――」

「きききききーー」

「おい、待て!」


――痛い、痛い。


 推定六歳程度かという幼児の脇に抱えられているのだ。

 その身を屈めると、こちらは足が地面に引きずられてしまう。

 しかし情けないことに、力弱い僕の足は、踏ん張り抵抗する役にも立たないのだ。


「こら待て、ルートルフ様を放せ!」


 それでもすぐに近づくテティスに、苦もなく解放されるだろう。

 と、思った、束の間。

 余裕のない視界に、王宮の建物が迫ってきた。

 と思うや、いきなり僕は薄暗闇に包まれていた。


「え?」

「きききききーー」


 がさごそじゃりじゃりと、土か砂が擦れるような音。

 ますます抱えられの位置は低まり、足ばかりか手の先まで地面に擦れそう。

 察するところ、僕を抱えた少年は薄暗い狭い空間で、膝行の姿勢をとっているようだ。

 恐らくは、建物の床下か壁の継ぎ目か、子どもにしか潜り込めない程度の隙間なのだろう。


「こら、待て、止まれ――」


 テティスの声が、確実に遠ざかる。

 つまりは、大人が跡を追えない、狭い空間なのだ。

 驚愕。愕然。

 しかし次の瞬間、僕は完全に抵抗を諦めていた。

 追跡が不可能、ということなら、もうこの少年のなすがままに任せるしかない。

 幸いにと言うか、僕を抱える手に、敵意や害意のようなものは今のところ感じとれない。

 救いの手が追いつくまで、抵抗をやめて様子を見るのが得策だろう、と思われるのだ。


 ありがたいことに、薄暗闇は間もなく終わった。

 狭い中の膝行が続いたのは、時間にして二十から三十の数をかぞえる程度だったように思われる。

 いきなり前方の視界が開け、陽光が降り注いできた。

 つまり、建物の隙間を抜け出したということらしい。

 目の前には、色とりどりの花々。それほどの大きさではないが、整備された花壇のようだ。

 周り三方は窓が少ないけれど建物の壁に囲まれ、残された一方はやや幅広くなった小川に仕切られた向こうが裏の森に続いているのか。

 屈めていた身を起こし、少年はその花壇方向へ突進していく。

 きき、きき、と甲高い声を漏らし、弾むような足どりで。

 白い石材で縁取られた花畑をぐるりと回り、すぐ脇の平たい石の上に僕を下ろした。

 自分は足を止めず、花に向けて駆け寄っていく。


「クレーロン」


 白地に黄色い筋の入った花が空に向けて開いている、その一つを指さして、嬉しそうに僕を見た。

 どうも、花の名前を教えてくれているらしい。


「きれい」

「ん、きれ」


 僕の感想に、鸚鵡のような返し。一歳児よりも舌足らずに聞こえるそれに、大丈夫か、と不安がよぎる。

 しかし本人は気にしたような様子もなく、にこにこ顔でくり返した。


「クレーロン、クレーロン、十六」


――十六って、何だ?


 舌足らずで聞きとりにくくはあるけど、確かに数字の十六と言ったようだ。

 きき、と甲高い、どうも察するに笑い声らしいものを漏らして、その指は隣の丈が低い紫の花に移った。


「ヴィーラ」

「ん、びーら」


 やはり名前を教えてくれているらしいので、反復してみる。

 きき、きき、と満足らしい喜声が返る。


「きれい」

「ん、きれ。ヴィーラ、二十二」


 付け足す数字は、花の株の数だろうか。すぐに数えて確かめられないけど、そう考えて差異はない気がする。

 その後も少年は、次々と花壇の花の名前と株数らしいものを教えてくれた。

 石の上に座った姿勢で、改めて見直すと、綺麗な金髪。かなり高価そうな服装。少し土か埃で汚れたような頬ながら、上品そうな顔つき。

 この花壇のある、王宮の中庭っぽい場所を我が物顔で歩き回っていることからしても、自ずと正体は知れそうだ。

 相手の説明が一段落したところで、僕は自分の鼻を指さした。


「るーとるふ」

「ん、ルート、ル?」


 そのまま小さな指先を、相手に向けた。


「そちらは?」

「ん。ウィリバルト」


――ウィリバルト、ね。


 さすがにこれはかなりはっきり発音したので、彼の名前と思っていいのだろう。

 しかしそれを聞いても、あまり考察は進展しないことに気がついた。

 考えてみると僕は、あまり公に顔を見せないという王子の名前を、聞いた記憶がない。

 年頃からしてもまず、かの第二王子でまちがいないとは思うのだけど、前に聞いた「身体が弱いらしい」という噂だけが、引っかかる。

 さっきからの動きの素速さ、赤ん坊を抱えて走り回れる様子から、虚弱さは窺えない。まあだからと言って、まったく否定できるものでもないけれど。

 そんなことを思っている間にも、ウィリバルトは落ち着きなく動き回っていた。

 花の間に頭を突っ込み、喜声を上げる。

 かと思うと、地面にしゃがみ込んで、手で土を掘り返す。

 汚れた手で高価そうなズボンの腿をばたばた叩き、嬉しそうに立ち上がる。


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