第16話 赤ん坊、父と面会する 1
昼食を済ませて、ヴァルターの押す赤ん坊車で部屋を出る。
階段は使わないが、渡り廊下のようなところを通って別棟に向かうようだ。
こちらにも執務室らしいたくさんの部屋の扉が見えているけど、その前に護衛が立っているところと無人のところがある。
貴族に漏れなく護衛がついているというなら、もっと大勢いてもよさそうに思える。もしかして王族や高位の貴族がいるところに限られるのか。
考えてみると僕の執務室も、護衛が立っているのはゲーオルクがいるときに限られている気がする。公爵関係者以上、ということなのかもしれない。
そんな一つの扉の前で立ち止まり、ヴァルターは護衛に会釈する。
「ルートルフ様です」
「聞いている。入室してよし」
許可をもらってヴァルターがノックをすると。
その音が止まないうちに、扉が開かれた。
「ルートルフ!」
「ちーうえ」
たちまち僕は、車の上から抱き上げられる。
とたん、自分でも思いがけないほどの激情に迫り浸されて、筋張った首元に縋りついていた。
むせ返るような、父の匂い。
母や兄やベティーナに比べてそれほど慣れ親しんだというわけでもないのに、武骨で居心地いいとも言いがたいのに、何故か安心できる抱擁。
思わずその胸元に、頬を擦りつけてしまう。
「四日ぶりだな。元気にしていたか?」
「ん」
四日。たったの四日なのだ。
たったそれだけで、これほど温もりに
もっと自分の精神は強い、つもりだったのに。精神、と言うより赤ん坊の肉体という存在が、どうしてもそうしたものを求めてしまうのかもしれない。
思うと、妙な羞恥めいたものが込み上げてきて、僕はいつもにも増して口数が少なくなってしまっていた。
「会いたかったぞ、母もたいそう心配していたぞ」
「ん」
くしくしと、固い胸元に頬擦りだけしてみせる。
そうしているうち、父の興奮も収まってきたようだ。
一度僕を揺すり上げ、抱きしめ直して、部屋の中へと戻る。
見ると、室内、応接用の椅子に二人の人物が座って茶を飲んでいた。
一人は予定通り、宰相のウェーベルン公爵。
もう一人は予想していなかったが、顔見知り。いかつい口髭の王国騎士団長、アドラー侯爵だった。
僕を抱いたまま、父は宰相の向かいに座る。
向かいの宰相と左手直角の向きの騎士団長に、僕はぺこりとお辞儀をした。
本来なら七面倒な貴族の礼を交わさなければならない場面だが、僕は免除ということになっている。
それを承知しているか疑念はあったが、気にするふうもなく騎士団長は豪胆な笑いを返してきた。
「おう、ルートルフ君とは三か月以上ぶりだな。男爵領では、直接言葉を交わすこともなかったが」
「ども。そのせつは、しつれいを」
「いや、事情は聞いておる。しかしこうして接してみると、こんな赤子がふつうに応答するのは奇妙だが、存外違和感のないものだな」
「このルートルフの、不思議なところだな」
侯爵の言に、宰相も頷いている。
いろいろ父と話したいことや、何故騎士団長が同席しているのかなど問いたいこともあるわけだが、まずこの訪問の公式目的は宰相への活動報告となっている。
僕はヴァルターを呼び寄せて、この四日間の報告をさせた。制止がないことからすると、騎士団長にも聞かせていいということらしい。
植物見本の取り寄せ指示、その鑑定結果。製鉄方法の見直し指示、など。
「うむ」と宰相は聞いて頷いている。当然ゲーオルクの動きから大半は承知しているはずで、そこに驚きなどの色はない。父もそちらから聞いているのだろう。
一人、騎士団長だけがしきりと感心の顔だ。
報告を終え、ヴァルターは筆記板を下ろした。
室内、応接テーブルとは逆隅壁側に、三人の男が並んで立っている。末席と覚しき側にヘルフリートがいるところを見ると、皆それぞれの貴族当主の文官、秘書役ということになるのだろう。下がって、ヴァルターはそのさらに末席に並び立つ。
初めに口を開いたのは、団長だった。
「いやあ、製鉄の改善に成功したと聞いたので居ても立ってもいられず押しかけたのだが、まちがいない話なのですな」
「うむ。とりあえず数回の試行で、従来より硬度の増した銑鉄の精製に成功したと報告を受けている」
「これは希望が持てますな。ぜひとも、早急に王国軍の武器類を一新したいもの」
「それを目指して奮励させよう」
侯爵と公爵、満足げに頷き合っている。
なるほど、騎士団長にとって国の軍備が最重要関心事だというのは、当然だ。
団長に儀礼上話を合わせるというほどでもなく、宰相にとってもそれは優先度の高い懸案だったらしく聞こえる。
「しかし、その改善もルートルフ君の知識から出たことだそうだな。本当に、驚嘆すべきことだ」
「うむ。期待を持って取り組んでもらったが、これほど短期間のうちに思いがけないところで結果を出してくれたものだ」
そのまま父も加えて、鉄や農作物の活用について、話題が広がる。
キナバナから油が採れそうな期待が持てるという点については、王太子と同様の所感が出される。
植物油の国内自給が高まることは、貿易収支の面で大きな好転が期待できそうなのだ。
「うむ、これは大きい。そのキナバナというもの、我が領でも生息がないか、調べてみたいもの」
「他領でも調査を命じているところだ」
これも、侯爵と公爵で頷き合っている。
ベルシュマン男爵領で生息例がないのは確かめられているので、この点で父は仲間に入れきらずにいる。
その辺りの話題が落着して、団長は僕に目を向けてきた。
「ルートルフ君の知識が有用だということが、はっきり確かめられたわけだ。その勢いで、こちらにも知恵を貸してもらえないものか」
「ちえ?」
「我が国軍の戦法に不全があるのではないかという懸念は、以前から指摘されてきているところでな。その辺りで、何か知恵がないものだろうか」
「ん……」
「団長、その問い方では、ルートルフは困惑するだけと思います」
首を傾げる僕に、父が口添えを入れてくれる。
「そうなのか?」と団長が眉を寄せているところへ、
「戦法の不全、という漠然とした問いかけでは、ルートルフの知識を引き出すのは難しいのです。何と言うか、もっと具体的でないと」
「うむ。さっきの製鉄の件でも、大まかに製鉄の方法という問題提起では回答は出なかったと聞いている。燃料が石炭と聞いて、初めて問題点の指摘がされたと」
「ん」
「加えて当然だが、実際に国軍の現状がどうなのかなど、そういった知識を入れなければ問題点の割り出しなどできようはずもない。現在のルートルフにはそのため、さまざまに国内産業に関する学習をさせているところなのだ」
宰相からも補足が入り、「ううむ」と団長は唸っている。
そうしてから何度か一人、頷いて。
「いや、何か思い当たることでもあれば、という範囲で構わないのだがな。我が国軍と隣国軍との差は、武器の質に加えて、個人戦と集団戦の切り替えの狭間辺りにあると思うのだ」
「きりかえ?」
「うむ。直近の大がかりな戦闘は、二十四年前のリゲティ自治領を巡るものになるわけだが。その際我が軍側は、当てが外れたというか相手の予想外の動きに困惑したという実状があるようなのだ」
「ん」
「どうも、こちらが正当に名乗りを上げて個人戦を挑んでいるところへ、卑怯にもその相手以外の者が横から矢を射かけてくるなど、
「……はい?」
「もとより礼儀知らずの野蛮な輩とは承知していたが、そこまで恥も外聞もかなぐり捨てて無法を貫いてくるとは――」
「ちょ、ちょ……」
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