第29話 赤ん坊、危機に陥る

 ヘルフリートの返事に窓から顔を出すと、確かに横向きの車体と数人の人と馬の姿が行く手の路上に見えていた。

 近づくにつれ、人力で引くものらしい土を満載した荷車が側溝に填まっているようで、三人の男が持ち上げようと動いているのが見えてきた。

 手前には、商人らしい服装の男が二人、腰に剣を提げ馬を引いて立っている。

 横向きの荷車が道を半分以上塞いで、こちらの馬車が通り過ぎるのは無理そうに見える。


「填まったのかい?」


 手前で馬車を停めて、ヘルフリートが声をかける。

 作業をしていた農民らしい男たちの一人が、申し訳なさそうに応えた。


「へい、すんません。すぐどけますんで」

「三人で、手は足りているのかい」

「さっきから頑張ってるんですがね。何とも……」


 肌寒い中で、三人とも汗まみれの顔だ。

 顔を見合わせて、テティスとウィクトルが降りた馬の手綱を馬車の横に引っかけ、そちらに寄っていった。手を貸そうというのだろう。

 馬を引いた商人らしい二人が、軽く頭を下げる。


「済みません。私たちは力がなくて」


 力がないのが本当か、泥で汚れそうな作業を嫌っているのか、本音のところは分からない。

 まあ二人ともテティスよりも小柄で、確かに腕力はあまりなさそうだ。

 その前を過ぎて、護衛二人は荷車に手をかけていた。

 様子を見ようと、兄とベティーナも僕らを抱いて馬車を降りた。

 ただザムを見られたくないので、扉はしっかり閉じる。

 手が足りなければ加勢するつもりらしく、ベティーナに僕を預けた兄とヘルフリートもかなり近づいて成り行きを見守る。

 赤ん坊二人を抱いたベティーナは危ないから下がるようにと言われて、馬車の横に佇む。

 護衛二人が加わった五人で、荷車の前後がしっかり握られた。


「よーし、息を合わせるぞ」

「一、二の三、それ!」


 ぎし、と震えたが、荷車は持ち上がらない。


「そら、もう一度」

「一、二の三!」


 次の瞬間、だった。


 ブヒヒヒヒヒーーーー!


 思いもかけない、けたたましい音声が、すぐ傍から立ち上がった。

 驚いて、見ると。馬車横につないだ二頭の馬の足から、血が噴き出しているのだ。


――え?


「ぎゃあ!」


 次の叫び声は、まさにすぐ身近からだった。

 一瞬世界が回転し、目の端にベティーナが倒れていくのが見えた。

 宙に投げ出されかけた僕の身体は、すぐに荒々しく掴み上げられた。

 横では、ミリッツァも同様に。倒れるベティーナの腕から奪い上げているのは、商人に見えていた男だ。

 僕を抱えているのも、その相棒だろう。


 考える暇もなく、身体が浮くのを覚えた。

 僕を小脇に抱えて、男が馬に飛び乗った、らしい。

 間髪を入れず、馬が走り出す。

 今、我々が来た方向へ。

 ミリッツァを抱えた男も、すぐ後ろについてきている。


「こら、待て!」


 兄のものらしい叫びが、すぐに後ろに遠ざかっていた。


 走る。走る。

 ものも言わず、おそらく馬の全速力で。

 容赦なく、振動が伝わってくる。

 男の腕に抱えられただけで他に何も支えがないのだから、今にも振り落とされそうな恐怖に包まれっ放しだ。

 必死に後ろを見ると。後続馬上で抱えられた妹は、声は聞こえないが号泣の表情だ。

 当然、怖くて怖くてどうしようもないのだろう。

 しかしそれにもとりあわず、馬は走り続ける。

 追ってくるものも、すれ違うものもない。

 すれ違いは、この早朝と霧のため、さっきからだが。

 追っ手は。

 護衛二人の馬の足に、おそらく剣で切りつけた。だから、すぐに追跡に入れないのだ。

 馬車を引いていた馬を使うとして、その準備にそこそこ時間を要するだろう。

 それが、この二人の賊の狙いだったと思われる。

 このまま街道をひた走ったとして、護衛たちが追いつくことはできるだろうか。


 思っていると。

 前触れもなく、馬は横に曲がった。小道さえない、草の中へ走り入っていく。

 もちろん、後続もついてくる。

 行く手は、林。その中に、逃げ込むつもりのようだ。

 ますます、追っ手が見つけるのは難しくなったことになるだろう。


 木の間に入って、馬の速度は落ちる。

 しかし乗り手は迷いなく、奥へと歩みを進めているようだ。

 奥へ。奥へ。

 暗い木立の中を、しばらく進んで。

 やがて、視界はわずかに開けた。

 それほど広くない平地に、小さな木造の小屋が一つ建っている。

 僕を抱えた男は、その脇で馬から降りた。

 後ろについてきた男も、降りてくる。

 近づいて、その音声が蘇った。

「ひいん、ひいん」とミリッツァが泣きじゃくっている。


「るーた、るーた――」


 こちらに向けて、精一杯手を伸ばしてくる。

 僕の頭が、じわじわと熱くなってきた。

 許せない。妹を、こんなに泣かせる奴。

 しかしそれでも僕になすすべはなく。

 じたばた暴れてもあっさり押さえられ、男の脇に抱えられているだけなのだった。


 馬をそのままに、男たちは小屋へ入っていく。

 中は、埃にまみれたような床の上に、薪らしいものがいくつか積まれている。それだけ、だ。

 何もないのか、と思っていると。僕を抱えた男は屈み込み、床を手で探った。

 窪みが把手になっていたらしく、四角く床板が持ち上がる。人一人が余裕でくぐれるほどの口が開き、下へ向けて木の階段が見えてきた。地下室、らしい。

 僕を抱えた男が降り、もう一人も続いてくる。

 三方向の壁に何やら布袋が積まれた、人二、三人が動き回れるかどうかという狭い空間だ。

 袋の積み上げが低いところへ、無造作に僕は乗せられた。

 少し離れたところに、ミリッツァも同様に乗せられる。


「るーた、るーた――」


 ぐすぐす泣きじゃくっていた声が、直後、さらに高くなった。

 見ると、そちらの男はミリッツァの上着をはぎとっている。


「やっぱり、こっちは女だ」

「じゃあやはり、こっちが弟だな。そっちは使用人の子どもだろう」

「決まりだな」

「ならあっちのガキを誘き出すのに、そいつはいらない。始末しろ」

「おう」


 片手でミリッツァを押さえた男は、もう一方の手にナイフを握っていた。

 一瞬で、僕の背筋に冷たいものが走った。


「だめ――」


 高速で、頭を回す。

 今こいつらは『弟』と言った。

 僕ら二人を攫ってきたのは、前回と同様に身代金目的か、何かを要求するための人質だろう。

 おそらく最終目的は兄を攫うか命を奪うかで、その『弟』ということに僕の意義を見出している。

 二人ともを連れてきたのは、似たような上着を着ていてどちらが『弟』か決めかねたせいだ。

 ここで確認した結果、ミリッツァを使用人の娘と思って、価値がないと判断している。

 兄の『妹』だということを知れば、その価値を見直すかもしれない。


「みりっちゃ、いもうと、いもうと」


 すぐ傍に立つ男の腕を掴んで、僕は必死に呼びかけた。


「いもうと、いもうと――」


「ん?」とわずかに訝しげな顔になったが、男はすぐに仲間に目を戻した。


「構わない、やれ」

「だめ――」


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