第30話 赤ん坊、無我夢中になる

「だめ――」


 目の前の男に向けて、必死に手を伸ばし。

 弾みで僕は、ぺしゃりと床に転げ落ちていた。

 しかし構わず、そのまま四つん這いになって、はいはい。

 ミリッツァを掴む男の足に、むしゃぶりつく。


「みりっちゃ、みりっちゃ、いもうと――」

「うるさい、この餓鬼!」


 そのまま足が上がり、僕は蹴り飛ばされていた。

 ずざざ、と木の床に転がり、こめかみに痛みが走る。

 それでも怯まず、もう一度その汚れた靴に食らいつく。

 再度足が振られ、僕の身体は宙に浮き。埃まみれの床に叩きつけられる。

 たちまち頭の中が、真っ白に霞む。


「馬鹿、人質の方は傷つけるな」

「でもよ」

「この先があるんだ。これまでの苦労を無駄にする気か?」

「……分かったよ」

「分かったら、さっさとそっち、やれ」

「おう」


 不服そうながら、声が返り。

 向き直り。

 手に握ったナイフが、振り上げられる。


「みりっちゃ……」


 頭真っ白な、ままで。

 力入らないまま、僕は手を伸ばす。


「ふぎゃあーーーーー」


 火のついたような、泣き声。

 一呼吸、二呼吸。

 置いて。

 どさり。

 その床に、重たい音を立てて倒れ沈むものがあった。


「何だ、どうした?」


 僕に屈み込みかけていた男が、訝しげに振り返る。

 その目の先、相棒がこちらを頭に、仰向けに倒れていた。

 見開いたままの濁った瞳が、天井を向いたまま動かない。


「何だって言うんだ、おい、ふざけてるのか?」


 頭側から手を伸ばし、鼻先に掌をかざし。


「何――嘘だろう、おい」


 そこに、息は感じとれなかったようだ。

 蒼白になった男は、慌てて周囲を見回す。

 どこかに、相棒の命を奪ったものが隠れている、と考えてか。

 しかし、狭い室内、積まれた袋の陰にも人の隠れようはなく。

 見回し、見回し、考え込み。

 首を振って、一息つき。


「分からない。しかし、こうしちゃいられない」


 倒れた男の手から落ちたナイフを、拾い上げていた。

 その先を、泣き叫び続ける赤ん坊の上へ。


「みりっちゃ――」


 ふらふらと、もう一度僕は手を伸ばした。

 男が、首だけ振り返った。

 その目が、血走り、丸められ。


「お前、まさか……」


 差し伸ばす。

 向けられた、男の眉間。

 ごく、ごく細い『光』が刺し込まれていく。


「ひ……」


 一瞬で、息が止まり。

 ゆっくり、男は前のめりに倒れていった。

 ばさり、と鈍い音。

 寸時、辺りが静寂に包まれた、が。


「ひぎゃあーーーーー」


 直後、狭い地下室にミリッツァの泣き声だけが響き渡った。

 ひとしきり全身をよじり。

 ぼてりと床に落ちて。

 こちらに向けて両手を伸ばしてくる。


「るーた、るーた――」


 必死に両腕をにじり這わせて、僕は妹に覆い被さった。


「みりっちゃ、みるな」


 すぐ目の前に転がる、醜怪な死体二つ。

 こんな醜いもの、見てはいけない。

 涙まみれの瞼を撫でて、僕は苦労してミリッツァの下に身体を潜り込ませる。

 それと気づいて、ミリッツァは泣きながら僕の背中にしがみついてきた。

 何とか踏ん張って、僕は両腕を立てた。


「いこう、みりっちゃ」


 妹を乗せて、四つん這い。

 おんまの格好で、一歩、一歩。

 倒れた男たちの身体を迂回して、階段に辿り着く。

 見上げると、遙か高みに四角い口。

 二人分の重みを乗せた自力で、登りつけそうにはとても思えない。

 しかし、登らなければならない。

 こんな醜い、陰惨な場所に、わずかな間もミリッツァを置いておけない。

 そのミリッツァは、まだはいはいがやっと、階段はとても登れない。

 僕が頑張るしか、ないのだ。


「しっかりつかまって、みりっちゃ」

「きゃう」


 僕のおんぶに安心して、ミリッツァの泣き声は止んでいる。

 意志が通じたか、首に回った腕に、少しだけ力が加わる。


 一段。一段。

 ゆっくり、慎重に、手と足を進める。

 もし背中の妹が転げたら、僕の力で支え止めることはまず無理だろう。

 梯子でなく、一応階段の態をなしていて、助かった。

 途中で休んでも、掴まるミリッツァが力尽きて滑り落ちることがない。

 何度か、首に回る腕の位置を確認して。

 今にも崩れ折れそうな手足を励まして。

 一段。一段。

 一段。一段。

 それでも途中で、腕の力が入らなくなった。

 もともと力弱い足が木の板の上を踏み損ね、今登った一段を滑り落ちた。


「わ」

「きゃ」


 慌てた態で、僕の首に回った小さな手に力が加わる。

 土埃で汚れ放題の板を必死に両手で掴み、僕は転落を支えた。

 角に擦れた頬に、痛みが走った。

 はあはあと息が弾み。

 何とか体勢と気持ちを落ち着け。

 見上げたゴールは変わらず、絶望的なまでに高い。

 一つの段の上で、しばし身体を休める。

 けれどそのまま休み続けると、二度と動けなくなりそうで。

 意を決して、一段上に、手を伸ばす。

 とにかく、一段。一段。

 ようよう上がっては息をつき、何とか気を奮って、また上に手を伸ばし。

 一段。一段。


 どれだけ時間がかかったか、分からない。上の床に手をついたとき、僕はもう精も根も尽き果てていた。

 しかしそれでも、せめて外に出なければ。

 水平な床に上がっても、もう腕を立てることもできなかった。

 埃まみれになるのも構わず、ずりずり、ずりずり、木床の上を這い進む。

 背中からは、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。

 どこか安心しながら、力を振り絞り。

 ずりずり、ずりずり。

 たぶん真っ黒になっている顔を、辛うじて戸口から突き出し。

 そこで、僕は力尽きていた。


 動けない。

 何とかここまで、辿り着いたけど。

 動けないまま、ここで飢えてか凍えてか命尽きるかもしれない。

 背中の妹だけでも、何とか救うことはできないだろうか。

 ここは、かなり林の奥に入った場所だ。

 最初賊たちが逃亡していた街道から、大きく逸れている。

 見ていた限り、ここに続く小道さえない。

 あれから少し遅れて追っ手がかかったとしても、この方向を見つけるのはまず無理だろう。

 街道を追うのは無駄だと気がついて、脇の方を探す方針に切り替えて。それからここを見つけるまで、どれだけ時間がかかるだろう。

 こちらが命尽きるまでに、間に合うか。

 この態勢で身体を休めて、回復して街道を目指すことはできるか。

 どちらも、かなりの無理筋という気がする。


 思い巡らす限り、希望は一つだけ、だった。

 その希望が叶うことを、ひたすら一心に、祈った。

 祈り、祈り。

 また、どれだけ時間が経過したか、分からない。

 背中の穏やかな寝息に合わせて、僕の意識も少しずつ薄れていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る