第13話 赤ん坊、現状を考える

 もうもうと湯気を立てているのは、成人用の大きな湯船。

 湯を汲むための、小さな桶。

 小箱に入った、石鹸。

 他には、何もない。


――これで、どうしろと?


 湯船を見たところ、入ったらおそらく、立っていても僕は溺れる。

 赤ん坊用の盥は、どこにもない。

 あったとしても、それに湯を汲み出すだけで、赤ん坊の身には重労働だ。

 使えるのは、小さな手桶、だけ。


――……しかたない。


 覚悟を決めて。

 それだけでも一苦労、精一杯背伸びをして、僕は湯船から桶に湯を汲む。

 床に座って、手桶で手拭いを濡らし、石鹸をつけて身体を洗う。

 到底、背中は洗えない。

 赤ん坊の腕は、そこまで回るようにできていないのだ。

 洗えるだけ洗い、また苦労して汲んだ湯で身体を流す。

 まだ頭髪の量が少ないのが、不幸中の幸いだ。

 何度か湯を被って、そこそこ温まることはできた。


 浴室を出て、乾いた大きな布で全身を拭う。

 ここでも、髪量の少なさに助けられた。

 寝間着が用意されていたので、それを身につける。

 ふと気がついて、着衣をしっかりする前に隣に用を足しに入った。

 聞きつけたナディーネが、トイレから出てくる僕を見て、頷いている。

 寝間着を整える間に、手拭い類が片づけられている。

 ふと僕に目を戻し、髪の濡れが気になったようで、拭き直してくれる。

 そうしてから、


「では、お休みください」


 抱き上げられ、僕はベッドに運ばれた。

 前日ほどではないけれど、眠気は募ってきている。

 布団に収まるとたちまち、眠りに落ちていた。


 そしてこれも、前日同様。

 夜中に目が覚めた。

 用足しに行ってくると、結果、目が冴えて眠れなくなった。

 また、寝室のテーブルで本を読むことになった。

 そもそもこの事態を見越して執務室から本を運んできている、自分の判断に苦笑いさせられてしまう。

 卓上に本を開き、のしかかる四つん這いになり。読んだ続きを探しながら。

 夕方来のことが、頭をよぎった。


 新たに分かったこと。

 ナディーネはもともと、あの幼い王女付きだったらしい。

 聞いた話から想像する限り、あの少女が今この後宮で実権を握っているらしい第三妃の産んだ王女なのだと思われる。

 王女は侍女をとられたことを苦々しく思っているようだし、ナディーネもおそらくいちばん華やかな職場から離されたことに面白くない心境なのだろう。

 僕への接し方にどこか気が入らない、投げやりな印象さえ受ける、所以と思われる。

 また、僕に用意されたこの部屋の設備等。

 衣食住の基本は、もったいないほど充実している。

 気になる点と言えば、侍女が一人だということ、その態度、赤ん坊の世話に慣れていない様子。あとは、トイレと風呂が赤ん坊仕様になっていない点。


――何故こうなったものか。


 僕の生活環境については、国王から直に正妃を通して指示されていると聞いている。

 その指示が、女官長の号令の元に実行されているらしい。

 赤ん坊仕様の不足は、その指示伝達の間の漏れだろうか。

 その点、初日から怪しんではいたのだけれど、夕方の王女の発言でおよそ確信が持てたことがある。

 おそらくこの後宮に回った情報では、僕が『年のわりに賢い赤ん坊』という程度で、『言葉を理解する』という事実は伝わっていない。

『賢いのだから、食事や着替えやトイレや入浴やを一人でできて不思議はない』という認識なのだろう。

 どちらかというと、子守りの立場から『こうであってくれると助かる』という希望的観測、とも言える気がする。

 しかし、まさか僕と会話が成立するとまでは、考えられていないようだ。

 それは、ナディーネが僕に聞こえる位置で愚痴を口にしていたことや、王女が本人を目の前にして悪口を言っていたことから、ほぼ断定できる。

 まあこの点、僕にも責任はありそうだ。

 初日にナディーネと対面した際、言葉に出して会話をしていれば、この誤解は生じていないはずなのだ。

 ところがあの時点で、僕は疲れ切って口をきく元気も残していなかった。

 そもそもこの短い人生の半分以上を、兄以外とは会話しないように努めて過ごしてきたのだから、これがふつうに楽なのだ。

 しかしその結果、もう二日目以降になると、今さら突然言葉を発してみせたら侍女が仰天して震え上がるのではないか、という状況になってしまっている。


――さて、どうしようか。


 待遇改善を図るのは、おそらく簡単だ。

 王太子に訴えて、王から正妃を通じて、指示を出し直してもらえばいい。

 先日「ルートルフに不自由はさせない」と宣言した手前、王太子が拒絶することはないはずだ。

 しかしそれだと、まず事が大きくなりすぎる気がする。

 何より訴える内容が、『侍女の資質』『トイレ』『風呂』になるのだ。何と言うか改めて取り上げると、言い出す本人の方が情けなく思えてきてしまう。

 衣食住の基本がこの上ないほど整えられている状況なのだから、貧乏貴族家に生まれた身として、『これ以上望むのは贅沢、傲慢』という思いが先に立ってしまう。言ってしまえば、本人が辛抱すればそれで済む程度の話なのだ。

 そしてもし、この訴えが通ったら、どういうことになるのか。

 トイレや風呂は、すぐ改善されるかもしれない。

 ただ――王宮のこうした慣習はまだ知らないのだけど――ここで不備が問題になったら、誰かが責任をとらされることになるのではないか。

 女官長や上の方の人への叱責、程度ならまあいい。まだ顔も知らないし。

 しかしもしかして下の方、へたするとナディーネ一人に責任が被せられる、という可能性はないだろうか。

 まだ深い交流もないし、いい印象も別にないのだけれど、おそらく彼女に特段の悪気はない。

 気に染まない異動、赤ん坊の世話の知識不足、対象への情報不足、想像力の欠如、といったところが、現状の要因だと思う。

 そもそも、育児経験のない十歳程度の子どもに何の情報も与えられていないとしたら、何の世話をどの程度すべきかなど、適正に判断できるわけがない。

「おトイレは一人でできるのかな、どうなのかな?」と様子を見ていたら、何とか自分でしてしまった。それなら「よかった、手間がかからない」とそのまま思い込んでしまうに決まっている。

 まずおそらく、それ以上積極的に世話を焼こうなどという動機は、持ち合わせていないのだろう。

 それでも実際、現状世話の不備は否定できないわけで。何かあったらあっさり責任をとらされて放逐、ということさえ考えられるのではないか。

 これが貴族の子女だったら、まだ家の事情が考慮される、ということもありそうだ。

 しかし昨夜ちら見した手紙の情報の限りでは、彼女は侯爵領の一農村の重鎮の娘、という出自らしい。後ろ盾としては、かなり弱いと思わざるを得ない。

 そちらの結果に至るとしたら、どうにも不憫で、僕も寝覚めが悪いことになりそうだ。


――悩ましい……。


 僕が辛抱すれば済む問題、でもあるのだ。

 しかし我慢するものが『会話』『トイレ』『風呂』って……。


――何か、情けなくないかい?


 大げさに言えば、人間の尊厳に関わる部分が問われてくる、気さえする。

 まあ、一歳児に尊厳も何もあったものではない、とも言えるけど。


――それを言っちゃあお終い、だし。


――さて……。


 とまで考えたところで、僕は思考を放棄した。

 ほとんど現実逃避の思いで、目の前の本に目を向ける。

 さしあたってチェックすべき植物図鑑の類いは、この二冊で最後だ。

 この後は、取り寄せた現物のチェック。その他、別の運用可能性の検討に入らなければならない。

 少なからず気を急かされる思いで、僕はページを繰っていく。


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