第43話 赤ん坊、攫われる 2
天にもどこにも、声は届かず。
永遠にも思えるほど、その不快な状況は続いた。
ほとんど気も遠くなりかけた、頃。
ふと急に、馬の走りが緩んできたような。
あたりの気配を窺うと。やや遠く、後ろに、別の馬の駆ける音。次第に近づいてくる。
ち、と男の舌打ちが聞こえ、馬は停められた。
どすん、と僕は袋ごと地面に下ろされた。おむつ越しながら打ったお尻が、痛い。
間もなく、すぐ近くにもう一頭の馬が停まる、足音といななきが聞こえてきた。
何とか苦労して袋の口を開け、僕はぴょこんと頭を突き出した。
数歩離れた馬から飛び降りたのは、テティスだ。
迎える黒装束の男は、余裕の顔で剣を抜いた。
「性懲りもなく、またやられに来たか」
「わたしの主を、返してもらう」
「女の命を奪う趣味はないから、さっきは見逃してやったものを。うるさいから、今度は容赦しないぞ」
「こっちの科白だ」
表情を変えず、テティスは愛剣を抜き払った。
すぐに、キキーン、と金属の衝突音。
二度三度、続けざまに打ち合い、弾き合う。
やはり剣をくり出す技量は、拮抗して見える。
しかしさっきは、鍔迫り合いの形で静止した次の瞬間、男の『火』と力任せの押し払いで、テティスは体勢を崩されてしまったのだ。
前に兄や護衛二人が言っていたように、戦闘中の『水』なら予期して肝を据えていれば受け流せる。しかし『火』は実際に痛みを伴うし、まして女の身で顔を狙われて、平然と流すことはできない。
この二人の間には、剣の技量以外に腕力と加護の差が横たわっているのだ。
「調べはついているぞ、女。貴様の加護は『水』のはずだ。こうして剣を互角近く交えていても、それ以上のことはできん。貴様に俺をしのぐものはない」
「うるさい」
さらに数度、打ち込み払い合って。
息を計って、男はぐいと踏み込んだ。やや斜めに傾げた剣で、テティスはそれを受け止めた。
またさっきの再現の、鍔迫り合いだ。
一瞬、にやりと男の口角が上がった。
すぐにやや二人の身体が向きを変え、僕に見えるのは男の背中だけになった。
背中相手では、僕の『光』は使えない。
また本来なら護衛が時間を稼いでいる間に少しでもここを離れるべきなのだろうが、僕はまだつかまり立ちさえできない身なのだ。訓練を怠っていた我が過去が、悔やまれる。
逃げられない。援助もできない。
僕にできるのは、テティスを声なく応援することだけだ。
――何とか、してくれ。
勝利を確信して、男は互いの呼吸を推し測っているようだ。
一瞬、二瞬。
次の瞬間、テティスの顔の前に、炎が上がった。
同時に、テティスは自ら相手の剣を押しのけた。
体重の差、故だろう。男の方にふらつきはなく、テティスは後ろへ向けてよろける。
「死ね!」
大振りではなく、男は鋭く剣を突き出す。
間一髪、それを躱し。
身を庇うようにテティスは片手を突き出した。
男の剣が横払いに変わりかけ。刹那。
「ぐわあ!」
男の絶叫。
追って、テティスの剣が男の腹を切り払った。
「ぐあああ――」
黒装束が、雪道の上に横倒しに落ちていく。
目もくれず、テティスは血刀を提げたままこちらに駆け寄ってきた。
見ると、左の二の腕の袖が切れ、血が滲み出している。
今しがたの躱しも、本当に紙一重だったらしい。
「ルートルフ様、お怪我はありませんか!」
「うーー」
両手を差し出すと。
僕は下半身に袋をまといつかせたまま、勢いよく女性騎士に抱き上げられていた。
「よかった、よかった。怖い思いをさせて申し訳ありません、ルートルフ様――」
力ずくで抱きしめられ、涙混じりの声をかけられ。
苦しい、と思いながら。
もうすでに、赤ん坊の体力は限界を超えていたのだ。
ゆっくり、僕の意識は遠のいていった。
目覚めると、温かく柔らかな感触に包まれていた。
その上、何とも甘美な心馴染む香り。
この上なく落ち着く、母の懐だ。
我が身の在処を確かめると、僕は再びうっとり瞼を閉じた。
もうしばらく、また幸せな眠りに戻りたい。
しかしその思いは叶わず、わずかな身じろぎを端から見とがめられてしまったようだ。
「あ、ルート様今動きましたよ。目が覚めたんじゃないですかあ?」
「あら、本当」
優しく、揺すり上げられる。
観念して、とろりと僕は瞼を持ち上げた。
「よかった。ルート、具合は大丈夫か?」
「大丈夫みたいですう。穏やかなお顔ですう」
「そうね、もう大丈夫みたい」
ゆっくり見回すと、居間のソファの上だ。
僕は母の膝の上。両側に膝をつくようにして、兄とベティーナが覗き込んでいる。
少し離れて、イズベルガが控えている。
他の人の顔は見えないが。
兄が立ち上がって、戸口の方へ呼びかけた。
「テティス、ルートが目を醒ました。もう大丈夫だ」
「それは祝着。安心いたしました」
戸口に、テティスとウィクトルが姿を見せた。
テティスは左腕に包帯を巻いているようだ。
「本当に、お前のお陰だ」
「いえ、ルート様を攫われたのはわたしの責任です。我が未熟を恥じるばかりです」
「とにかく取り返してくれたのは、お前だ。感謝する」
「もったいないお言葉です」
そんな兄と護衛のやりとりの間にも。
僕の足にひしと抱きついて、ベティーナは顔を押しつけてきていた。
「よかった。ルート様、本当によかったですう。ルート様にもしものことがあったらと、生きた気がしなかったですう。何かあったら、わたしのせいです……」
「ベティーナ、子守りは護衛ではないのですから。あんな恐ろしい賊に襲われて、しかたなかったのですよ」
母が手を伸ばして、少女の頭を撫でていた。
ふと「くううーーん」という聞き慣れないほどの弱々しい声に下を覗くと、ソファの足元にザムが丸まっているのだった。
初めて見る情けない顔つきは、彼もベティーナと同じ思いなのだと分かる。
相手の悪辣な手口にしかたなかったのだと慰めてやりたいが、声をかけるわけにもいかない。後でゆっくり、存分に撫でてやりたいと思う。
ザムもベティーナも、精一杯僕を護ろうとしてくれたことに、まちがいないのだ。
「本当によかった。テティスさんが追いついて、ルート様を取り返して下さって、本当によかったですう」
「その点は、本当に幸運だった。追いつくことができるか気が気でなかったが、馬の差か、乗っている者の重みの違いか、侯爵領に入る手前で追いつくことができました」
「そこは本当に、神に感謝ですね」
母がゆっくり、頷く。
テティスが騎馬で追跡を始めるまでのいきさつは、くわしく聞かなくても分かる気がする。
最初に襲撃された場所は、屋敷までもう少しの距離だった。
賊が去った後すぐに立ち直って、屋敷に駆け込み馬に飛び乗ったということだろう。
ベティーナとザムが悶絶しているままではあるし、家の誰かに事情を告げるくらいはしたのだろうか。
それからの時間は僕にとって気が遠くなるほどの長さだったが、ほどなく追いつくことができたのは、本人の言う通り幸運が味方したということもあったのだろう。
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