第125話 赤ん坊、喜ぶ

「大事なこと? 何だ」

「そのきこう、もう20ぺーじくらい、あと」

「この先、ですか?」


 テーブルに置いた紙の写本のページを、ヴァルターが捲る。

 十数ページ進んで。

 紀行の筆者は、自国の南地域を抜けてシュパーリンガー、ダンスクの両国を通過し、リゲティの地に入った。そこを監督しているグートハイル王国の役人と意気投合し、屋敷で世話になったと書かれている。

 記述箇所をさした僕の指が止まると、ゲーオルクが顔を上げ、首を傾げた。


「これがどうした?」

「このとき、りげてぃ、ぐーとはいるのりょうちだった」

「そうだな、そりゃ――」

「あ!」

「え? 殿下、どうした――」


 ゲーオルクが驚いて視線を転じた先。

 王太子がこれ以上ないほど目を見開いて、顔を強ばらせていた。


「ゲーオルク」

「はい」

「我が国とダンスクの間で、リゲティを巡って何度も戦闘をくり返しながら、明確な領有権の所在を決定できずにいる、理由は何だった?」

「ええ――確か、最初の領有がどちらだったか、決定的な資料がないんだったな。はっきり確かめられた最古のものは、両国がその領有を巡って戦闘を行った、というものだった。その他に両国からそれぞれ都合のいい古文書などが持ち出されているが、どれも年代や信憑性が曖昧なものばかりだという」

「そうだ」

「それで、これが何か関係するっていうのか? 最初の戦闘はグートハイルの勝利だったから、この紀行文のときはグートハイル領で不思議は――」

「その最古の文書にある戦闘が、三百三十年前だ」

「だから、このときは――あ、ええ?」

「この紀行の年紀が訂正されれば、三百四十三年前というこれがリゲティに関する最古の資料ということになる」

「最古の領有がグートハイル側にあったという証明になる!」

「元々が我が国の領土であったという主張ができることになるわけだ。今もゲーオルクが言ったように、これまではこの紀行文の記述が戦闘後のもので、グートハイルが勝ちとった領地に筆者が入ったのだろうという解釈だったわけだが、それが覆る」

「そうですよ! しかもそれが関係両国のものではなく、第三国の文書だから、信用がおける度合は大きいことになります」


 元学友三人で顔を見合わせ、興奮気味の言葉を交わし。それが一度切られた。

 改めて椅子に深く凭れ直し、ふうう、と息をついて互いの顔を見合わせる。


「しかしこれがすぐ、リゲティをダンスクから奪い返すというための根拠にできるわけではない」

「だな。こんな資料があったからといって、向こうがはいそうですかと手放すはずもない。二十四年前にはっきり戦闘で奪いとったのだからな。ますます現在の所有権を主張してくるに決まっている」

「それでもこの資料の信憑性を確立しておくことには、大きな意味があるだろう。この先またかの地の領有を巡って紛争になることがあれば、今度こそ我が国の正当性を主張して、国際世論に訴えることができる」

「そうなるな」

「そのためにはまず、シュトックハウゼンに対してこの文書の年紀が三百四十三年前だということを認めさせ、他国にもそれを周知することだ」

「そこが難しいのではないかな。シュトックハウゼンはダンスクの友好国だ。そちらに不利になるような訂正は、飲まないのではないか」

「これがリゲティに関係することを知らせずに、まず年紀を正確にする点だけ提案すればいいだろう。根拠をはっきりして資料の正確性を高める意味の指摘なら、向こうもむしろありがたく受け入れるのではないか」

「ああ、なるほど」

「だとすれば、その話はできるだけ早く持ち出すのがいい。ダンスクも含め他国の者がこの文書の他の箇所まで気を回す余裕を持つ前に、年紀の訂正だけ確立する。今回の通商会議では、各国の代表者同士が個別に会談を持つ機会がある。その場で外交の責任者同士の間でさっさと話をつけてしまう」

「こういう会談で両国に関係する学術研究の成果を伝え合うのは、珍しいことではないでしょうからね。シュトックハウゼンにとっては他国に大いに価値を認められている自国の書物について、その価値をさらに高める意味の指摘と、好意的に受け止めるでしょう。一方で、こうした会談で持ち出された件を後で否定するのは、かなり困難を伴うことになります」

「そういうことだ」


 ヴァルターの指摘に、王太子は鷹揚に頷く。

 そのままややしばらく黙考して、さらに一度大きく頷いた。


「そうだな。会議の行われるダルムシュタット王都の公使館宛てに、エルツベルガー卿に事前に渡るように鳩便を送ろう。あの侯爵ならば、手紙の指示でも理解して計らってくれるだろう」

「だな」

「こういうとき紙が使えるというのは大きいぞ、ルートルフ。従来の通信量では、一度の鳩便でこんな煩雑な指示は不可能に近い」

「だね」

「一行が現地に到着するのは、明日の予定だ。一刻を争うということでもない。宰相とも打ち合わせて、午後から指示文書を練ることにしよう」

「それがいいだろうな」


 王太子の案に、ゲーオルクも頷きを返していた。

 一同納得で、この話は収まる空気模様だ。

 今話し合った一通りの要点をヴァルターがまとめて、筆記板を王太子に渡している。

 小さく欠伸して、僕は隣の公爵子息を見た。


「で、げーおるくのほうは?」

「ん、何だ?」

「きょう、なにかようがあるんじゃなかったの」

「おお、そうだった」


 手を叩いて、ゲーオルクは壁際を向いた。

 いつもはいたりいなかったりなのだが、今日このご子息は側近を伴ってきている。その男を呼んで、両手に収まるほどの布袋を受け取っていた。


「さっき殿下も仰っていたように、とりわけ急ぎの用事ではないんだがな。お前が分かるようなら訊きたいと思ったんだ。昨日領地から戻ってきた配下の者が、こんなのを持ってきたんでな」

「なに」


 袋から取り出して、ごとりと卓上に置く。

 大人の拳より一回り大きいほどの、真っ黒な石の塊だ。


「領内で鉱物資源を探している係の者が、山中で見つけたんだそうだ。かなり大量のこんな黒い鉱物なので、すわ新しい石炭層の発見か、と喜んだんだが、どうも違うものらしくてな。燃えるわけでもなく磨いて光るでもない。加工するにも強度がなく、ぼろぼろ崩れてきかねない。それでもまちがいなく他と違う珍しい鉱物のようだからな、何か用途に心当たりはないものかと、博識の赤子殿に相談したいわけだ」

「ふうん」


 最後の揶揄調の言い種は聞き流すことにして、テーブルに乗り出してそれを眺める。

 確かに石炭とは、似て非なるもののようだ。

 ヴァルターにナイフで端を削らせると、簡単に崩れてほとんど粉状に落ちていく。

 その粉も含めて、何処までもすべて漆黒だ。


「ん!」

「どうなんだ?」

「もしかしたら、もしかする」

「どういうことだ」

「これのかこう、ためすところつくれる?」

「おう。少人数なら造作もない」

「このこな、ねんどとよくまぜて、ほそいぼうのかたちにして、とうきのようにかまでやく」

「お、お?」

「こなとねんど、7たい3くらいのわりあい。ぼうのふとさ、このぼくのこゆびくらい。ねんどのしゅるいや、まぜるわりあいや、やきかたや、いろいろくふうして。できたもの、いたやかみにさきをこすりつけて、きれいなくろいせんをかける、もくひょう」

「お、おう……」


 ご子息はこちらの勢いについてこられないでいる、ようだけど。

 こちらの横でヴァルターが手早く筆記板にメモをとっているので、問題ないだろう。

 少し興奮過多、という自覚はある。

 もしかするとこれで、ぼんやり将来目標と考えていた製品が、手に入るかもしれないのだ。


「うまくすると、かみにぴったりのもの、できる」

「どういうことだ、ルートルフ」

「えんぴつ、という。かみによくあう、ひっきどうぐ」

「そうなのか?」

「いんくつけなくていい。てがるにかけるようになる」

「ほう」


 話を進めると、ゲーオルク以上に王太子が前のめりになってきた。


「もくたんで、いたにかくことあるでしょ。それよりもっとかきやすく、きれいになる」

「ほう」

「いたとかに、あまりあわない。かみにつかうのが、いちばんふさわしい、もの、できるはず」

「そうなのか」

「そんなものに、してほしい。うぇーべるんこうしゃくりょう、がんばって」

「お、おう」


 持ち出してきた本人が、いちばん取り残された様子になっている。


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