第154話 赤ん坊、慄《ふる》える
コリウス砦での戦闘が終了した、その日。
土の日の夜、ということで一日ずれたことになるが、僕は侍女たちを連れて実家に泊まりに帰った。
父とともに屋敷に入り、使用人たちに迎えられ。
夜は、父の寝室で寝床に潜らせてもらった。
それまで黙って僕の要望を聞いてくれていた父は、ふう、と息をついて頭を撫でてきた。
「とにかくも、疲れたな」
「ん」
ぐしぐしと、父の寝巻の肩に額を擦りつける。
そっと髪が撫でられ。
珍しい、というよりも父と二人だけで寝ついて縋りつくなど事実上初めてのことなのだけど。午後からずっと息子を気遣うように見ていてくれたそのままに、穏やかに抱き寄せてくれた。
「疲れたよな。まあ、まず精神的に耐えがたいものだ、戦というのは」
「ん」
「父にしても、緊張で何度も叫び出したくなったほどの一日だった。赤ん坊の心には、あまりに重かっただろう。一人部屋に戻しても気が休まることはないだろうから、ずっと離さず膝に抱いているようにしていたが」
「ん、ども」
「もう、終わったのだ。何もかも忘れて、休め」
「……ん」
ぎゅうと抱きしめられ。さわさわ撫でつけられ。
それでかなり、心穏やかに鎮まっていく感覚、なのだけれど。
どうしても、腹の底に重く沈み消えないものがあり、細かな
「……ひと、ころした」
「うむ」
「たくさん、ころした……」
「仕方ないことなのだ。お前が背負い込むことではないのだ――」
「………」
「――と言ってやりたいところだが、割り切れぬのだろうな。ルートルフは、聡すぎる」
「……ん」
もちろん、敵軍の兵なのだが。報告を受けただけで、少なくとも千人を超える死者を出したことになる。
すべて、僕が思いついた指示の結果の、犠牲者だ。
一人一人に罪はない、おそらく国を思って命がけで高山を越えてきた、勇気ある兵士たちだ。
「その底のものを晴らしてやることは、父にもできぬ。言えるのは、いいことだけを考えよ、という程度か」
「ん」
「お前の判断が、国を救ったのだ。お前は国の英雄だ」
「………」
「前にここで、母に抱かれながら誓ったな。ルートルフは、母や妹のいるこの国を護る、と。お前は、その約束を果たしたのだ」
「……ん」
「お前の判断がなければ、コリウス砦の三千人、そのほとんどが命を落とすしかなかった。三千人の命、その他の土地や財産、人々の生活、すべてを護ったのだぞ、この小さなルートルフが。父は本当に、誇りに思うぞ」
「ん」
すべて、言われなくても、分かっている。
分かりきっている。
それでも、腹の底に重みは残るのだ。
言われるまでも、ない。
――しかしそれでも、父の言葉は胸に染み、わずかずつでも重みを溶かしてくれそうに思える。
さわさわと、髪を撫でる感触が心地いい。
「朝早くに領地へ送った、避難の支度をせよという指示、結局必要なくなったのは幸いだったな」
「ん」
「昼間も少し話したが、あのときは余裕もなくて上の空でもあった。改めて思うとあの返答、ウォルフには呆れるしかないな」
「ん」
早朝に領地へ向けて鳩便を送った。
その返信が、午前のうちに届いていた。
母とミリッツァは、すぐにも南へ向けて避難できるように準備する。しかし、兄はヘンリックとともに領に残る、というのだ。
敵軍が領に入ってくるようなら、領民たちを東の森から岩山を抜けて避難させなければならない。その陣頭指揮をとる、という。
読むなり、父はその場で頭を抱えていた。
直後にコリウスからの報告が届いて、それどころではなくなってしまったのだが。
「とんでもない話だぞ。あの息子、次期領主の立場を何だと思っている。そういう危険な役目は配下に任せる度量を持たねば。上に立つ者の務めは、まず自らの命を
「……だね」
「あの長男、来月王都に来た後は、教育し直してやらねばならぬ」
「はは……」
「しかし――」改めて、ぎゅうと抱きしめられた。「やはり息子二人、父と母の誇りだ」
「ん」
さわさわ撫でられ、軽く揺すられ。
そのうち、僕は眠りに落ちていたようだ。
その二日後、執務室で読書をしていると。
騎士団長が戻ったという報せが入ってきた。
まだ現地は平穏を取り戻すにほど遠いだろうが、最低限の報告を受け指示をして、すぐ引き返してきたという。
自領の落ち着きを確かめたい気はあるだろうが、国軍の長なのだ。長く王都を離れるわけにはいかない。
まだリゲティ方面がざわつき続けているところなのだから、なおさらだ。
国軍についても領兵の本隊も、コリウスとリゲティの双方を見据えた配置を見直し、指示を与えてきたらしい。
少しして、王太子がこちらを訪ねてきた。
もったいなくもおん自ら、団長が運んできたという新しい報告書を届けてくださった。
それが、砦の前で弓隊として参加することになった予備兵に書かせた手記、だという。
どうも農村の住人にしては珍しい、日頃から身辺の出来事を書き残す趣味を持つ者、ということだ。
「ここから分かる限り、やはり小麦粉散布が原因と断じてまちがいないようだな」
「だね」
「珍しい真に迫った書き方で、分かりやすい。隧道出口が一瞬白い粉に包まれ、すぐに『風』でそれが奥に送られた。すぐさま『火』が吹きかけられた、ということになる。まあこちらからの指示通りだが」
「やっぱり、ぜつみょうにうまくいった、らしい」
「そういうことだな」
二日前から変わらず、王太子は疲れた苦笑の顔ばかりになっている。
かなり理解は進んだが、それでもすべてを腹に収めきれずにいる、という様子だ。
国王や宰相の周辺では今回の件を「神のご加護」と騒いでいる向きがあるらしいが、科学者でもある王太子はそういう説に
「騎士団長には、宰相とともに会って話したがな。現地で話を聞いても、こちらから送った鳩便の説明を読んでも、結局状況を理解しきれていないということだった。さっき話して、ようやく何とか納得に近づいたというところか」
「ん」
そんな話をしているところへ、戸口外に残していた王太子の護衛が伺いを立ててきた。
騎士団長が訪ねてきているという。
今の話題の上で問題ないので、王太子が許可を出す。
入ってきた団長は王太子に礼をとり、しかし細かい儀礼の収まりを待てない勢いで尋ねかけてきた。
「いきなりで申し訳ないが、ルートルフくんに説明を願いたい」
つまるところ、要するに。
慌ただしく宰相や国王への報告などを済ませたところだが、くだんの爆発の件だけはやはり理解しきれない。この凡人の頭で理解できるように説明してくれ、というのだ。
――理解できるように、と言われてもなあ。
ヴァルターに応接椅子へと運ばれながら、僕は首を振った。
「ぐうぜんがかさなって、ぜつみょうにうまくおきた、ぶつりげんしょうだろう、としか……」
もともと、小麦粉のような細かい粉末を空気中に拡散したものには、引火しやすい。それが、その場の空気の具合や周囲の密閉度などの条件によって、爆発的な燃焼を起こすことがある。
今回については、『風』で隧道内に吹き込ませた小麦粉が絶妙に拡散し、続けて『風』で送った『火』が効果的に引火を引き起こした、と想像される。
そういう説明をすると、向かいで王太子がうんうんと頷いた。
「つまり現象としては科学的に説明できるものだが、そこまでの効果を示したのは奇跡的な偶然の重なりと思うしかないわけだ」
「よく分からずに『神のご加護』と言っている者もいると聞きますが、まんざらそれも的外れでもないかもしれぬというわけですか」
「ん」
「しかし――そういうことは、今回のような結果をもう一度戦場で再現しろと言われても、難しいわけですな」
「そういうことになるな」
むむ、と騎士団長は唸っている。
この現象を戦術上使うというわけにいかないことを、残念がっているらしい。
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