第102話 赤ん坊、驚きを見せる
「まあとにかくも、ルートルフが無事でよかった。これからはちょくちょく、顔を見に来るからな」
「いいの?」
思いがけない父の申し出に、きょとんと顔を見直す。
僕の王宮入りのときのとり決めで、父との面会は週一度ということになっていたはずだ。
「今日もこんな騒ぎで慌ただしくなってしまったが、もともとここを訪ねる予定にしていたのだ。恒例の面会が先週できなかったことでもあるし」
「ん」
「それもあって、宰相閣下と話したのだがな。当初はルートルフに言わば里心がつくと執務に差し支えるのではないかと案じられていたが、このひと月近くの様子と成果を見ると、その心配もなさそうだ。むしろ父がもう少し頻繁に会った方がルートルフの精神面にもよいのではないか、ということになった。毎日とまではいかぬが、できるだけこの時間帯、ここを訪ねることにしたい」
「うれしい」
先日の第二妃私室侵入の件を思い返すと、この赤ん坊の身体と精神に、確かに肉親との触れ合いは大切なのだろう、という気がする。
――と考えて、思い出した。
その宰相の妥協、王太子への第二妃の進言が関係しているのではないのか。
――まあ、文句をつけるようなことではないから、いいけど。
「本当ならルートルフの居住も我が屋敷に戻したいところだが、これはやはり安全面を考えると後宮の方がよいのだろうな。今日のような襲撃が我が屋敷で起こったら、無事で済んだものか自信が持てぬ」
「だね」
「何だかこうしているとずっと傍にいたような錯覚もしてしまうのだが、ルートルフの顔を見るのも十日以上ぶりだったのだな。荷車や紙の件も、人づてに聞いてはいたが、直接話すのは考えてみると初めてではないか。どちらも素晴らしい成果と聞いている。よくやったな。父も誇りに思うぞ」
「ん」
「お前から届けられた紙の見本、一部を領地に向けて発送した。イレーネもウォルフも、きっと驚き喜ぶであろう」
「ん」
考えてみると本当に、この件で家族から喜びと褒め言葉を聞くのは初めてだ。
何となく胸の中がじんとしてきて、言葉もなく父の胸元に頭を擦りつけていた。
そうしているうち、また扉にノックがあった。
「王太子殿下がいらしています」
「え?」
慌てた様子で、ヴァルターが迎えに立ち上がる。
こちらでは父が腰を上げ、僕を抱いたまま応接椅子の横に出た。
入室してくる王太子に向けて膝をつくところを、制止された。
「ベルシュマン卿もいたのか。この部屋は儀礼を略する倣いだ、そのままかけてくれ」
「は」
文官も侍女も頭を下げる程度の中、子爵だけが膝をついて礼をとるという図は、何とも奇妙なものだ。
淀みない動作で王太子はいつもの席に着き、父はその向かいに戻る。僕はそのまま膝の上で、向きだけ正面に直した。
ヴァルターがナディーネに、僕が遅くなることを後宮の部屋に告げてくるようにと外に出し、自分は王太子用の茶の用意を始めた。
「まだルートルフがこちらにいると聞いたのでな、今日の件で情報を共有するために来た。卿もいるのは好都合だ。一緒に聞いてくれ」
「は」
「ルートルフはたいへんな目に遭ったな。怪我はないと聞いたが、まちがいないのだな?」
「ん」
「話に齟齬があっては面倒だ。ヴァルター、概略でいいので起きたことを説明してくれ」
「は、かしこまりました」
本当に粗筋程度の文官の説明に、王太子は軽く頷きながら耳を傾けている。表情が変わらないのは、すでに受けている報告と不整合はないということだろう。
「うむ、分かった。何にせよルートルフは災難だったな」
「は」
「一連のことを見る限り、これは明らかに背後にそれなりの身分の者の指示があるとしか思えぬ。その首謀者だが――」
「は」
「先ほど、クーベリック伯爵を拘束した」
「は?」
僕が目を丸くして、声を上げると。向かいで王太子は、にやりと口角を持ち上げていた。
どうもこの、僕の驚く様が見たかったようだ。
しかしどうしたって、驚く他はない。
さっきその騒ぎを収めて、まだ二刻経つかどうかなのだ。貴族当主を拘束する手続きとして、迅速すぎるにも程がある。
同じく驚愕の様子で、問い返す父の声が妙な震えを見せていた。
「それは、殿下――何とも急なことで。捕らえたという使用人が白状したということでしょうか」
「いや、其奴はまだ黙秘しているようだ。だが、塀の外に停めていたという馬車の中に、伯爵家の所有を示すものがあったのでな。すぐ伯爵邸に衛兵を差し向けて、屋敷の中を捜索させた。今回の指示を出した記録とダンスクの政権要職者との通信の証拠が見つかったので、即刻捕縛に至ったという報告が来ている」
「何と……」
「まあ、こうして卿が驚くほどだ。例を見ないほど迅速な動きをとったので、向こうも証拠隠蔽の余裕がなかったのだろう」
「確かに、そうでしょうね」
まず考えられる限り、あり得ない展開のはずだ。
以前にディミタル男爵に関する件で、実感した覚えがあるが。
そもそもこの国では貴族の自治権が強く、王命ということであってもそう容易に家宅捜索など取り調べを強行することはできない。
かの男爵の場合、ベルシュマン男爵の領主邸侵入や子息の襲撃を行った賊について、使用人が接触していたらしいという情報があっても、それだけでは屋敷の捜索も、男爵周辺の人間への聴取も、できなかったらしい。
最後には明らかな男爵の側近が隣の領で不審な行為を働き、領主と騎士団団長に剣を向けた、ということがあって初めて、家宅捜索と男爵本人への聴取が実現したのだ。
今回の件も、それに近いことになる。
孤児たちをチンピラが襲った、それを指示したのが伯爵の使用人らしい、という程度だったら、たいした取り調べもできなかっただろう。
まずは続いて起きたことが、度を越していた。
王子格待遇の子爵子息への襲撃、というばかりでない。裏庭とはいえ王宮敷地内に武器を持って無断侵入した上での凶行、なのだ。国家反逆レベルの暴挙と言える。
それに伯爵関与を疑わせる証拠が見つかったとなれば、国王の裁断の上、屋敷の捜索と当主への聴取が実施されたとして無理はない。
無理はない――しかし。
その迅速さ、異常に過ぎるのだ。
事が起きてから二刻も経たないうちの、家宅捜索強行。
どう考えても、国王と十分相談して裁断を得るという余裕があったはずもない。
考えられる可能性は、一つしかない。
「でんか、よそうして、じゅんびしてた?」
「さあ、どうだろうね」
口元を緩めたまま、肩をすくめてみせる。
まあそれだけで、返事になっているようなものだ。
「しかしもし予想していたにせよ、今日のようなルートルフ襲撃の確かな情報を得ていたわけではないぞ。まさかこれほどの暴挙が行われるとは、驚き呆れる他ない」
「ん」
おそらくのところ。
先日からの製紙業通達に絡めて、『反王太子派』や『親ダンスク派』の貴族の洗い出し、あるいは挑発めいた言い渡しなどを進めていたのだろう。
王太子の功で間もなく他国に対する有位を得る、という話の中で、それをよしとしない者が恐慌を覚え、尻尾を出すような行動に至らないか、と。
これもおそらく、随時父親と協議し、もしもの際の国王裁断は迅速に下される、あるいは後付けでも構わない、ということにしていたのではないか。
「仮にも伯爵ともあろう者が、これほどに大慌てで無理矢理強行したとしか思われない暴挙に至るとは、起きてしまった今でも理解に余る。それまでの理由があったのか? 今さらルートルフの身柄を狙っても、製紙業の確立についてならもう手遅れではないか」
「それ、さっきここでもはなしてた」
ヴァルターを見ると、「はい」と頷きを返してきた。
さっきも出ていた、僕を隣国に連れ去って製紙の開祖を詐称させる目的では、という想像を話す。
聞いて「なるほど」と王太子は嘆息した。
「言われてみると、発明を横取りするのはかの国の得意技だったな。あちらと十分相談する暇なく、伯爵が独断で踏み切るという理由はつく」
何処か会心のものを得たかのような、口の端での笑みが浮かんでいた。
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