第38話 赤ん坊、屋敷内を回る
見回す母の視線が最後に止まった小さな少女が、我慢できないと言わんばかりに笑顔を弾けさせた。
「はい、はい、ルート様偉いです! すごいです! ずっと前からお利口だと思っていましたけど、ますますすごい、驚きですう! お仕えするのが誇らしいです」
「こらベティーナ、落ち着きなさい」
「でもでも、すごいじゃないですか、誇らしいじゃないですか。こんなお子様、どこにもいませんよ! ルート様はきっと、国いちばんのお利口さんですう!」
「そうですよ、ルートルフはうちの自慢の息子です」
「初めてお母様を呼んだときから、こんなお利口な子は他にいないと思っていましたですう」
イズベルガの制止も聞かず、ベティーナはぎゅうとミリッツァを抱きしめ、興奮のまま母と喜び声を交わしている。
今にも手を取り合って、止めどなく自慢合戦を繰り広げそうなほどだ。
――何だかなあ……。
喜ばれることが困るというわけではないけれど。僕は当惑しきっていた。
僕が正体を明かしたら、まず最初に見られる反応は『気味が悪い』というものだと思っていた。
それなのに――少なくとも母とベティーナのそれが、あまりにも純粋に喜びと誇りに満ちているのが、想定外すぎたのだ。
――これがふつうの反応――というわけはないよなあ。
おそらく、この二人が異常すぎるのだ。この先も、これが標準と考えてはいけない、と思う。
それが証拠に、他の面々、父や兄も、イズベルガを初めとする他の使用人たちも、二人の勢いに呆気にとられて温かく見守っているという様子だ。
「きゃうきゃう」
ベティーナの興奮が伝わってか、抱かれたミリッツァもご機嫌で手足をぱたぱたさせている。
その声に、ますます室内の緊張が緩んできている。
それでもまだ何度も抱きしめ直され、なかなかに僕の呼吸が困難になっていた。
ぱたぱたもごもごと、母の腕の中で身をよじる。
「はーうえ……」
「いけませんよ、ルートルフ」
「……は?」
何が、いけないのだろう。
きつい抱擁の中で、無駄な抵抗はやめよ、ということか。
「ルートルフはまだ赤ん坊なのです。無理して『母上』などという大人びた言い方をする必要はありません。まだ『母様』でよいのです」
「は」
「さあ、言ってご覧なさい」
「……かあ、ちゃ……」
「はい、それでいいのです」
「かあちゃ……」
確かに、口の回りとしてはこちらの方が楽なのだけど。
何となく、大人の話し方ができると宣言した後で、赤ちゃん言葉は気恥ずかしい。
どことなく火照った頬を柔らかな布地に寄せていると、頭の上に頬擦りの感触があった。
ひとしきり抱き揺すり、満足してか、母は脇方向へ笑いかける。
「ではベティーナ、これからもルートルフをお願いしますよ。外には知られないように、ルートルフを護らなくてはいけません」
「はい、奥様。いっそう気を引き締めてお仕えしますう」
そんな母の言葉をもって、この場は解散となった。
もうこの日、外では建国記念祭初日の喧噪が始まろうとしている。
父の仕事は休みだが、王宮前広場で行われる開会の国王の挨拶の場には顔を出すつもりだという。
その場に息子たちを同行させるつもりだったが、身の安全のために取り止めにした。
ヘンリックは急ぎ領地に戻るため、出立していった。
ヘルフリートは父の指示のもと、この後の采配のため出かけていった。
他の面々は基本、屋敷の中に籠もることになる。
急がなければならないのは、夕方からの兄の舞踏会出席に向けての準備程度だ。
護衛一人を伴って父が出かけると、屋敷の中は日常に戻る。残った顔ぶれからすると、この王都のというより、領地の屋敷での日常に近い感覚だ。
ひとまずミリッツァの相手をすることにして一緒にザムの背に跨がって、僕はベティーナを手招いた。
「べてぃな」
「はいルート様、何でしょう」
「やしきのなか、みたい」
「ああはい、お屋敷探検ですかあ」
「ん」
「そう言えばルートは、着いた初日も昨日も、大人しくさせられてたものな。じゃあ俺もつき合おう」
気さくに、兄が立ち上がってきた。
邸内ではあるが念のため、ウィクトルが傍につく。不寝番をしていたテティスは休息時間だ。
ザムに乗った僕とミリッツァ、兄とベティーナ、護衛のウィクトル、という顔ぶれで妙に仰々しく、家の中を見て回る。
やはり家の間取りは領地のものと似ていて、一回り小さいという感じだ。
ここが客間、父の執務室、などと巡り、兄と感想を交わす。ベティーナもいつもの気さくさで、会話に加わってくる。
気がつくと、後ろに従うウィクトルが妙な顔になっていた。首を傾げて覗くと、苦笑が返ってきた。
「いえ、本当にルートルフ様、お兄様とはふつうに会話をされているんですね」
「ん」
「そうなんですよお。ルート様は本当にお利口ですう」
いや、それにしてもその会話にふつうに加わってくるベティーナが、やはりおかしいと思う。
初めて聞いて異常さに落ち着かないウィクトルの方が、ふつうの反応だろう。
「こちら、お台所は領地のものより広いんですよお」
ベティーナに案内された厨房は確かにそこそこの広さで、ローターという中年の料理人と助手らしい少年が立ち働いていた。
例によってちょくちょく手伝いに来ているというベティーナは、料理人と親しげに声を交わしている。
当然だが王都の屋敷では他の貴族などを歓待することもあるので、厨房も食堂もそれなりの規模が必要ということらしい。
領地が飢えかけていた時期はこちらもかなり節約を余儀なくされていたが、最近はようやく少しは貴族の端くれにふさわしい食生活になっているという。
妙な喧噪に興味を惹かれたのは、厨房に隣接する土間の方だった。覗くと、大きな籠というか檻のようなものに小さな動物が何匹も押し込められて蠢いている。
訊くと、食用の野ネズミだという。生きたままのものをまとめて仕入れて、必要な分を絞めて料理に回すらしい。
「昨日はわたしも絞めるのを手伝ったんですよお」
以前から野ウサギの処理を身に着けているので、ベティーナにも容易にできる作業なのだという。
「逞しいな、お前」と、兄が感心している。
屋敷の裏手から正面側に戻ってくると、外の賑わいが大きく伝わってきた。
祭りの開会式が始まったらしい。
二階のバルコニーに上がると、式の様子は見通せないが、広場周辺の人だかりはかなり窺うことができた。
笛や太鼓を鳴らす音声が、風に乗って流れてくる。
「会場まで行けないのは残念だが、やはりいいもんだな、祭りの賑わいは」
「ん」
「こんな大勢集まるお祭りは初めて見るから、楽しみですう」
腕に抱いたミリッツァを揺すり上げて、ベティーナはその場で足踏みが止まらないほど落ち着かない様子になっている。
考えてみると、僕だって『祭り』に類するものを目にするのは初めてだ。
何となく感覚的に分かった気になってしまっているのは奇妙なものだが、まあ例の『記憶』のせいだろう。
楽器の音がひときわ高まり、止まり。
静寂の中に耳を澄ますと、遠くかすかに人の声がしているようだ。
「国王の挨拶が始まったのかな」
「ん」
ややしばらく、そんなもどかしい静けさが続き。
やがてさらに静まった、直後、いきなり楽器音と大勢の歓声が弾け出した。
祭りが、始まったのだ。
建物の隙間に見える人々が、両手を天に突き上げてとりどりに動き回り出している。
こちらでも、ベティーナがますます大きくミリッツァを揺すってとび跳ね始める。
上下させられながら、きゃっきゃとミリッツァも上機嫌だ。
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