第42話 赤ん坊、読書をする
予定していた通り、昼食後、父は王宮へ出かけていった。
ヘルフリートと護衛のマティアスを連れ、いつもの出勤と同様に徒歩移動らしい。
兄とベティーナは、護衛たちと剣の稽古。それが見えるところで、僕とミリッツァはザムと遊ぶ。
遊び疲れて、ミリッツァはお昼寝に入る。
僕は兄の膝に乗って、一緒に本を読む。領地にはなかった、国の歴史を簡単に記した内容だ。
向かいの母とともに編み物をしていたイズベルガが、笑い顔を向けてきた。
「前から微笑ましく見ていましたけど、本当にルートルフ様、ウォルフ様と一緒に本を理解して読んでいるんですねえ」
「兄の真似をしているだけかと思っていたけど、そうなのねえ。そうするとルートルフ、一人でも本が読めるのではなくて?」
「めくるの、たいへん」
「ああ、そうなのね」
笑って、母は軽く肩をすくめている。
文字を読むだけなら問題はないのだが、木の板で作られた本はページをめくるだけでも赤ん坊には重労働なのだ。もちろん自分で本を運ぶなど、当分無理だ。
板ではなく羊皮紙を丸めた巻物のようなものもあるのだが、こちらは広げて巻き戻りを押さえておくのが難しい。
もっと手軽に読める書物はないものかと、痛切に思うところだ。
「兄を便利に使いやがって」と苦笑しながら、僕に合わせてページをめくってくれる。そんな兄の顔は、何となく楽しげだ。
今回父の書斎から借りてきた本は比較的新しい歴史を記述したもので、現国王の即位の状況から、先日も聞いたリゲティ自治領を巡るダンスクとの紛争が記述されている。
最近触れたばかりの話題なので当然読み方に熱が入り、兄のめくる手はその数ページを何度か行き来する。
しかし何度読んでも、先日テオドール伯父に聞いた話よりたいして詳細になってもいない内容だ。
「今ひとつ、よく分からないな。何故ダンスクの侵攻を許してしまったのか、惨敗を喫したのか。我が国でもそんなことは予想して備えていたのだろうに」
「ん」
同感で、僕も頷く。
首を捻りながら、兄は室内を見回した。
ちょうどイズベルガと話して用を終えたらしい執事を見つけて、声をかける。
「クラウス、ちょっと訊いていいかな」
「何でございましょう」
「リゲティ自治領に関する隣国との抗争について、知っているか」
「世に知られている程度のことでしたら」
「俺はまだ、そんなことがあった、という程度にしか知らないんでな。二十四年前か、そのいきなり攻め込まれて敗北を喫したという、敗因は何なのだろう」
「簡単に言ってしまうと、軍事力の差ということになっているようです。我が国でももちろん備えはしていたはずですが、不意を突かれたのと、組織していた現地領民による兵が思うように動かなかったといわれていますな」
「兵が動かなかった、のか?」
「リゲティ自治領の領民は、長年置かれていた立場から、かなり特殊な民性を持っていると言われます。どっちつかずというか日和見というか、ですね。国同士の紛争が起こった際には、拮抗するようなら様子見をする、勢力差があるなら強い方につく、という具合で。それ以前五十年ほどに渡って我が国としては、かの領地を自国のものとして従来の国民や領地と同様に扱い、それが定着したと思い込んでいた辺りで、見誤ったということになるようです。不意を突いてダンスクの軍が国境を越えてきた時点で、領民としては自分たちが加わるなら互角、様子見ならダンスクの圧勝、と判断を下したようで」
「それで、様子見を選択したと」
「そのようです。ダンスクの軍備などが優れているという情報が実際以上に膨らんで流れたとも言われますし、事前にダンスク側から領民幹部への懐柔工作が行われていたという説もあるようです」
「ふうん。その、軍備が優れているというのも、かなり事実ではあるのだな?」
「様々な点で、ダンスクは軍事的に周辺を凌駕していると言われています。最も顕著なのは武器に使われている鉄の品質で、従来よりかなり硬い鉄の産出に成功している、と。実際かの
「なるほど」
何度か頷いて、兄はクラウスを下がらせた。
ふと顔を上げると、向かいから母が気遣わしそうに覗き込んできている。
「ウォルフは、他国との戦に関心があるのですか」
「先日、エルツベルガー侯爵とテオドール様に教えていただいたのです。製糖などの産業を考えるに当たっても、他国への影響を頭に入れておかなければならない、と。国益を考えて始めた産業が他国との摩擦を招くようになって国益を損なうようでは、本末転倒ですから」
「そうなのですか」
小さく、母は溜息をついた。
脇のイズベルガと顔を見合わせ、ゆるゆる首を振っている。
「あなたたちにはそういう憂いごとは見ずに、自由に好きなことを考えていてもらいたいのですが」
「そうも言っていられないようですので。少しずつでも知識を深めていきたいと思っています」
「しかたないことなのでしょうねえ」
言い交わす横から、「ひううう」とか細い声が立ち昇ってきた。
壁際に寄せたソファで、ミリッツァが身じろぎを始めている。
「はいはい」と僕は兄の膝を下り、よたよたそちらへ寄っていった。
ソファによじ登ると、「ふみゃ」とぐずり顔の妹が縋りついてくる。頬を擦り寄せ、その息遣いが穏やかに落ち着く。
やがて上機嫌な笑い声になってきた赤ん坊を、ベティーナがおむつ替えに連れ出していった。
「ルートルフもたいへんねえ」
「ですねえ」
向こうで、母と兄が苦笑の顔を見合わせているけど。
たいしたことではない。この程度で妹の平穏が保たれるならお安いご用だ、と思っている僕がいる。
戻ってきたミリッツァと、夕食時まで遊んで過ごすことにする。
途中一度、兄とベティーナに二階のベランダに連れていってもらった。
やはり、祭りの賑わいはますます盛んになっている。
もう日が落ちようとしているのも何のその、広場では数えきれない人々の歓声と楽器の音色が続いているようだ。
夕食前に、父が帰宅した。
着替えを済ませてソファにどっしり腰を下ろし、ふううと大きく息をついている。
「人いきれに酔いそうなほどだった。王宮からここまで歩くのに、いつもの倍以上かかったぞ」
「それはたいへんでした」
笑顔で、母が労う。
それにやはり笑いを返しているが。父の顔つきに、何か憂いの影のようなものが見える気がする。
兄も気になったらしく、問いかけていた。
「それを別にしてもお疲れに見えますが、父上、王宮で何かあったのですか」
「うむ。あ、いや――お前たちが気にすることではない」
「そうですか」
家族に心配をかけないつもりのようで、夕食時父は明るく振る舞っていた。
それでも、やはり何かあるのだろう。予定が変わって明日は朝から王宮へ出仕する、と妻子に告げている。
それ以上問い詰めることもできず、兄と僕は傾げた顔を見合わせていた。
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