第44話 赤ん坊、非常事態を知る 2
考え込む兄をよそに、僕はクラウスの顔を見た。
「かんせんのしかた、わからない?」
「クチアカ病の感染方法ですか? はい、正確には分からないため、看病する側も恐ろしくて近づけないでいる、という状況のはずでございます」
「かんせんほうほう、おおきくわけて、くうき、ひまつ、せっしょく」
「え、おいルート、何だそれ?」
目を丸くする兄に、説明する。
感染症はたいてい、微小な病原菌が人から人へ移ることで伝染する。
空気感染は、ごくごく微小な病原菌が空気中を漂って移るもの。
飛沫感染は、咳、くしゃみ、会話などで散乱した菌が、目、鼻、口などから人に入る。または別の物などに付着して触れた手を経由して目、鼻、口などに入る。
直接感染は、皮膚と皮膚の接触によって移る。
これらは、菌の大きさや種類によってだいたい区分される。
「ぜんかい、しょくじやしたいはこびのひとへの、かんせんは?」
「特に多かったとは聞いていませんな。隔離した場所に長く留まらないようにしていたはずですし」
僕の問いに、クラウスはすぐ答える。
兄が、僕の顔を覗き込んだ。
「ルート、このクチアカ病で、何か思い当たる知識があるのか?」
「ちかいびょうき、ひまつかんせん。いまのはなしでも、くうきかんせんのかのうせい、ひくい」
「つまり、飛沫感染の可能性が高いと。それなら、何か対処法があるわけか?」
「ん。はなとくち、ぬのでおおう。まわりや、て、しょうどくする」
「それで感染は防げる?」
「かなり」
「父上に報せないと!」
今の話を鳩便で送ればいいのかもしれないが。
文章で父や役人たちに理解させる記述ができるか、はなはだ心許ない。
何しろこの世に『病原菌』というような感覚の概念さえ、ほとんど存在しないのだ。
もちろん伝染病の原因は何かが人から人へ移っているものという程度には想像されているが、『菌』とか『ウィルス』とかに当たるものは目に見えるものとして見つかっていない。
むしろ『菌』などという現実的な生物よりも、『呪い』というような概念の方がよほど巷間に一般的な考え方となっている。
役人たちへの説得は、そこの受け入れから始めなければならない。
「俺とルートで王宮に説明に行くのが、いちばん現実的なんじゃないか」
「でも、外に出るのは危険です。あちらこちらに病気の原因がつけられているかもしれないのでしょう?」
「はなとくちおおって、ものにふれないようにすれば、だいじょぶ」
「でも……」
僕の説明に、母は納得しきれない様子だ。
確かに、今ここでわずかな情報のやりとりをして飛沫感染と想像しただけで、空気感染の可能性がまったくないと断じられるわけではない。
「くうきかんせん、としても、かぜとおしいいそと、だいじょぶ」
「そう……なのですか?」
説明を加えても、母には納得できないだろう。
外に出ることに、危険がゼロとは誰にも言い切れない。屋敷の中にいさえすれば、ほぼ安全は保障されているのだから。
「母上、王都の何千何万の人の命がかかっているのです。このまま無駄に時間が過ぎれば、この屋敷の安全も脅かされる。最悪、我が領地にまで災いが及ぶことさえ考えられます」
「それは、分かるのですが……」
はあ、と息をついて。
「それでも、子どもを危険にさらしたくないのです」と、母はひそめ声で呟いた。
それから小さく頷き、顔を上げる。
「しかし、あなたたちは決めたのですね。分かりました。あなたたちの信じるように行動しなさい」
「ありがとうございます、母上。まずは、父上に伺いを立てようと思います」
そもそもこっちで勝手に決めて王宮に押しかけても、入れてさえもらえるはずがないのだ。
まず、クラウスに指示して鳩便を送ってもらうことにする。
クチアカ病の感染防止方法について、思い当たる知識がある。父上に、直に説明したい。
父上が屋敷に戻るか、こちらから王宮を訪ねるか、どうすべきか判断していただきたい。
そのような趣旨の文を、書いてもらう。
短距離なので、鳩便に要する時間は数分程度だ。
間もなく、「ヘルフリートを迎えにやる」という返事が来た。
待つ間こちらでは、イズベルガとヒルデに指示して感染防止の態勢を整える。
スカーフ程度の大きさの布を用意して三角形に折り、口と鼻を覆って後ろで結べるようにする。
石鹸水を用意して、手や物を消毒できるようにする。現存する石鹸は植物油を灰と粘土で固めたものということで、どこまで殺菌効果があるか心許ないが、ただの水だけよりはましだと信じることにする。
とりあえずみんなが家の中にいる限りは必要ないが、外に出る場合は口と鼻を覆う、外から誰かが入ってくる場合は手と触れたものを消毒する、ということを徹底することにした。
その布数枚と壷に入れた石鹸水は、王宮へ持参するように準備する。
ほどなく到着したヘルフリートには玄関外で待たせ、手の消毒と口布の装着をさせた。
兄と抱かれた僕も口布をして、外に出た。
王宮に慣れたハラルドが、護衛としてつき従う。
「なるべく、ひとのいないみちをとおって」
「今の王都は、どこも外に出る人はいませんよ。見回りの警備隊員が歩いている程度です」
ヘルフリートの返事に納得して、すっかり日が暮れた街を最短行路で急ぐことにする。
小走りで進むと、王宮まではあっという間だった。
祭りの痕跡が雑然と残る広場を抜け、豪奢な門をくぐる。出る際に断りを入れているらしく、門番にはヘルフリートの会釈だけで通過を許された。
王宮の建物は、手前の二階建て部分が父など行政に関わる者たちが執務する領域、その奥の舞踏会などに使われる広い催場を挟んで、三階建ての国王らの執務と住居用の御殿に続く。
その手前の執務領域には、平時よりは出入りが少ないそうだが、静まり返った廊下にひっきりなしに人が行き交うのが見えている。
二階に上がり、奥まった一つの部屋に僕らは通された。父が使っている宰相付きの執務室らしいが、今は無人だった。
入って奥に、戸口へ向けて執務机が二つ並んでいる。左脇には雑然とした書棚、その前に応接用らしいテーブルと椅子が据えられている。
その応接用の椅子に、座って待つように言われる。
そしてすぐに、ヘルフリートは父を呼びに行くと出ていった。
間もなく、疲れた様子の父が気忙しげに入ってくる。
僕らの向かいの椅子に座るや、急き込んで問いかけてきた。
「感染防止に思い当たる知識とは、どういうことだ?」
「ルートの知識に、当てはまるのではないかと思われるものがあったようです」
「聞かせてくれ」
「そのまえに、いまのじょうきょう、おしえて」
「うむ」わずかに、父は虚空に視線を流してから、答える。「必要なことなのだろうな。他では、秘密にしてくれ。現在、王都の十箇所程度で発症者が見つかり、空き家や広場に張ったテントなどに隔離を進めている。人数は百人を超えているようだ。聞いていると思うが王都全体に戒厳令が発せられ、無許可の外出は禁止として、王都警備隊が見回りと声かけの徹底をしている」
「ちりょうは」
「発熱のある者には、解熱剤を飲ませている。食事を与えても受け付けない者が多い。感染が恐ろしいので看病に当たる者が少なく、町医者たちも手をこまねいている状態と聞く」
「きをつければ、かんせんふせげる」
兄の口添えも借りて、病原菌と飛沫感染の原理を説明する。
横で、ヘルフリートが真剣にメモをとっていた。
口と鼻を覆い、消毒を徹底すれば感染はかなり防げること。
発症者の致死率自体はそれほど高くないのだから、解熱と栄養補給に努めれば、回復は望めるだろうこと。
持参した布と石鹸水を、見本として渡しておく。
実際に僕の『記憶』の知識がうまく当てはまる保障はないのだが、迷信などに惑わされている現状に比べれば、ある程度説得力を持たせた方針を打ち出せば、役人も市民たちも光明を持って行動をとれるだろう。
まだ息のある患者までまとめて焼き払われる、などという風評が出回っていたら、発症を名乗り出る者が減って感染防止が遅れる恐れがある。広く方針を伝達することは必須だ。
人々には極力外出禁止を徹底させ、やむを得ない外出の際には口布と消毒を義務づけさせる。
医療関係者と協力者には、よりいっそうの感染防止の注意をさせて治療に当たらせる。
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