第26話 赤ん坊、出かける
この朝、いつもと少し違うのは。
「お出かけ用のお召し物ですよ」
言いながら、ナディーネが着替えを用意してくれた。
あまり僕の目にふだんのものとの違いは判別できないけど、生地が丈夫だとか汚れにくいだとか、あるのかもしれない。
ますます暑さの増している頃合いなので、着るものは少ない。
着衣の上に、最近は毎度洗濯して用意されている涎掛けを着ける。
そこまでは、いつものようにセルフサービス。
ただ食事の後、珍しく侍女は手を貸してくれた。
僕を椅子に座らせて、いつもより丈のある革靴を履かせる。これも、お出かけ用らしい。
まあつまりは、いつもの屋内用の靴は足を突っ込むだけだけど、これは紐で結ばなければならない。さすがに赤ん坊には無理だという判断だろう。
「では、昼食後の三刻に迎えに来ます」
昨日の打ち合わせをくり返して、ヴァルターは僕を受けとる。
今日の午前中は、植物見本が三件届く予定、ということだ。
少し遅れてやってきたゲーオルクが、その到着を教えてくれる。
「ヒルシュ伯爵領のチャリバナ、ヴァンバッハ子爵領のコエンドー、ギーレン伯爵領のセノカー、だな」
「ん」
裏門近くの畑前に出ていくと、その通りの三種類の植物を植えた箱が並べられていた。
葉や根を観察した上、チャリバナとコエンドーは外れ、セノカーは経過観察で畑に植えるようにと判断を下す。
一応セノカーの一株の根茎部分を、皮をむいて千切りにしてもらうように頼む。
「当たりはまた、三分の一かよ」ゲーオルクが零す。「このコエンドーってやつの葉っぱなんか、食えそうなんじゃないのか?」
「ためすのは、かって。とにかく、よそうのとは、ちがう」
「けっ」
さすがに口に入れて試す気にはならなかったようで、土の上に投げ捨てている。
セノカーの千切りは、戻った執務室で王太子も交えて試食した。
「へええ、何か新鮮な、鮮烈な辛さだね」
「ただ食べて、うまいもんじゃないぞ」
「何かの料理の風味づけ、香辛料という使い方になるんじゃないですか?」
「ん。すづけにしても、いいらしい」
「酢漬けか、なるほど面白いかもしれない」
「もっと、あきまでそだてると、からさつよくなる。からだあたためるとか、けんこうにいい、らしい」
「へええ。薬効もある香辛料というなら、高価に取り引きできるかもしれないね」
これも赤ん坊の口が辛さを受け付けないだろうから、僕は口出しだけだ。
それでも王太子が香辛料の価値を認めたようなので、このまま栽培を進めることにする。
満足の王太子とゲーオルクが帰った後で、僕とヴァルターは午後の外出に備えて準備、早めの昼食をとった。
「馬車の御者は私が勤めますので、ルートルフ様は侍女と女性護衛とともに後ろにお乗りください。目的地まで一刻程度でしょうか、それほど遠くはありませんので。あとの護衛二人は徒歩で横につきます」
「ん」
「他でも使用される方がいて、王宮のものとしてはかなり質素な馬車になってしまい、心苦しいのですが」
「それは、いい」
後宮扉前に行くと、ナディーネと女性護衛が待っていた。
ナディーネはふだん通りのエプロン姿に、遠出用らしい深い革靴を履いている。
護衛は当然革の防具姿で、腰に剣を帯びている。ナディーネが胸までの高さに見える、長身だ。年齢は二十歳前後か。縦は少しヴァルターに劣るが、横はもっと逞しい印象だ。
「こちら、護衛のセリアさんです。ふだんはパウリーネ王女殿下の護衛をしていらっしゃいます」
「セリアです。よろしく」
「文官のヴァルターです。よろしくお願いします」
揃って、通用門へ出る。
ちなみに僕は、ヴァルターに抱かれた格好だ。王都内の石畳や城壁外の土の道では、赤ん坊車の勝手がよくないということらしい。
用意されていた馬車は、確かに豪華さはなく、客席部分が後部から乗り降りする幌がけになっていた。それでもさすがに荷馬車と変わらないというわけではなく、中には布座布団の敷かれた二人がけの座席が二つ設置されている。
僕は前の席にナディーネと並んで後ろ向き、後ろの席にこちらと向かい合ってセリアが座る。
打ち合わせ通りヴァルターが御者席に着き、男の護衛が二名、車体の両側に立つ。馬は二頭立てだ。
「出発します」
ヴァルターの声とともに、馬車は動き出した。
がたがたと、石畳の振動がお尻に伝わってくる。
幌の後部に開いた小窓に、王宮の門が遠ざかる。
大きめの屋敷の並びを抜け、両側の家並みが庶民的なものになってくる。
がたがたこつん、がたがたこつん、規則的に異音が混じるのは、石畳の境か、車輪の継ぎ目か。何とはなしにリズムをとって、間隔を数えてしまう。
昨日の会話でこの先行きへの期待が半減してしまって、言っては何だが投げやりな気分なのだ。
見える建物に商店らしきものが混じるようになり、道行く人の姿は途切れない。
窓に顔を寄せられる状況ならもっといろいろ熱心に観察したいところだけど、そちらまで立っていくのもまずい気がして、僕は大人しく座布団の上。
がたごとことことと規則的に揺られ、昨夜よく眠れなかったせいもあり。
自然と、瞼が重くなってきた。
ふと、低く聞こえてきたのは、セリアの声らしい。
「何とも、気の進まない仕事だが……」
「………」
独り言か、ナディーネへの話しかけか。
向かい合うナディーネからは声がない。
「主の言いつけには従わなけりゃならないからな。いいな?」
「……はい」
ようやく聞こえた小さな返事も、僕の耳にはどんどん遠ざかって聞こえている。
かくん、と首が折れ。
目の前が暗く――。
―――
―――
ふわり、夢の中で空に浮いた、気がした。
何処となく解放感、のようなものに包まれ。
わずかにわくわくとしながら、目を開く。
――とたん。
――え?
いきなり、目映い陽光が全身に注いでいた。
薄暗い馬車の中とは、うって変わった明るさ。
行き交う人の声。
ぱたぱたと大勢の足音。
慌てて見回した、ところ。
見えるのは、街の風景、だが。
――え、え?
いつにない見晴らし経験に、心臓が一拍先走りしそうになっていた。
人の頭が――目より下に見えるのだ。
――はいい?
落ち着け落ち着け、と自分の胸を宥めて。
ようやく理解が、追いついてきた。
僕は今、人通りの多い道路脇の高い場所に座っている、ようだ。
お尻の下は、丸い形の板。
何となく香る、水の匂い。
ああ、と聞いたことがあるだけの知識を思い出す。
街中のところどころに設置されているという、防火水槽というもの、だろう。
どういう訳か理由は分からないが、僕はその蓋の上に座っているらしい。
高さは、ほとんどの男の頭より上。
ひっきりなしに人が行き交うが、誰も僕の存在に気がつかないようだ。
――さて――どうしよう。
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