第146話 赤ん坊、報告する

 当初、僕の後宮入りが必須とされた理由は「赤ん坊を責任ある職務に就けることについて、諸侯の理解を得る」ことと、「通勤の利便性と安全のため」だった。

 前者についてはいわゆる前例踏襲の観点から、いつでも「実は王族だった」あるいは「王族待遇で取り立てた」と説明できるように、最初から態勢は調えておく、ということだ。

 後者の「利便と安全」には、「赤ん坊なのだから常時肉親と顔を合わせていると甘えが出て、執務への集中が阻害される」という懸念が加わっていた。

 それから二ヶ月を経て、これらから「諸侯の理解」と「甘えが出る」という点では、危惧が薄まった、ということになる。

 そのため王宮側の認識では「後宮に固執する必要はない」という感覚になってきた。しかしやはり「利便と安全」を考えると、現状維持が最善か、という判断にもなる。

 というわけでこの件については、「実家に戻る機会を増やす」という措置で落ち着きを見た。具体的には月に数回、空の日の夕刻から土の日にかけての一泊を父の家で過ごすことにする。

 ただその際、王子王女との付き合いの都合で、土の日の午後からは後宮に戻っておく予定が入ることもありそうだ。

 そんな話し合いをして、この日急遽実現した会食を終了した。


 後宮の部屋に戻ると間もなく、女官のヨハンナが訪ねてきた。

 女性護衛を二名伴っていて、僕の部屋への配属が決まったという。これまでは三週間、それぞれ第二妃と第三妃の部屋に仮配属されていて、言わば研修期間終了、本日より正式配属、という扱いになるらしい。

 キルステンとズーザンネという二人は共に十八歳で、今春騎士団予備隊を出て民間の警備職に就いていた、と紹介された。二人とも中肉中背の体格だが、剣の腕は後宮護衛として十分なものを持っているという。

 テティスの一年後輩ということになるが、予備隊在籍時から尊敬の念を抱いていたということで、二人ともこの先輩を見る目の色が違っている印象だ。

 ともあれ当分この二人には、今までニコールが担っていた職務を交代制あるいは協力して勤めてもらうことになる。

 この他これまでと変わったのは、今この時間からということになるが、ザムの運動をウィクトルに頼んである。ウィクトルは後宮に入れないので、二刻後を目処にテティスが入口にザムを迎えに行く手筈だ。

 あと、シビーラは正式に第二妃の部屋に戻した。必要に応じて相談事があればカティンカがあちらの部屋を訪ねる、ということで妃の了解を得ている。

 ということで、新体制での生活が始まった。

 新しい護衛たちが赤ん坊の読書姿や他では見ない侍女たちの執務状況を見て目を丸くする、というのはほぼ恒例の光景だ。


 翌々日、水の日。執務室に入るとメヒティルトを残し、いつもの通りカティンカとリーゼルを後宮に送り出す。

 これも今週から、短い距離ではあるけど侍女の後宮までの道行きにはシャームエルが付き添い、扉の向こうではキルステンが引きとる、という形で護衛をつけている。

 先日の件もあるし、このところ印刷事業でのうちの侍女たちの有用性が知られ始めているので、油断しないことにしているのだ。

 朝の打ち合わせをしながら、ヴァルターは顔を曇らせていた。


「今日は、やや不穏な情報が入っています。リゲティ自治領に駐留しているダンスク軍に、増員の動きが見られていると」

「そうなの?」

「こちらでも接するシェーンベルク公爵領の兵を拡充し、国軍とアドラー侯爵領の領兵の待機場所をそちらへ移動させているということです」

「ふうん」


 今すぐどうということではないのかもしれないが、何とも剣呑な落ち着かない話だ。

 しばらくして訪ねてきた王太子も、その話題で苦い顔になっていた。


「前にも言ったように、この程度の動きなら十分に対処できるわけなんだがね。万が一の侵攻があっても、公爵領兵でとりあえず対応できる。国軍とアドラー侯爵領兵も、余裕をもって半日以内に到着できる」

「だな」


 臨席したゲーオルクも、いつになく真剣な顔で頷いている。

 その学友の顔をちらりと見て、王太子は続けた。


「そうして兵を集めれば、十分にこちらに利のある状況だ。ダンスク本国から自治領にさらに兵を送るには日数がかかるし、その動きは逐一こちらで捉えている。加えておそらくこちらの有利な条件として、我が国のこれらの兵にはかなりの割合で新しい製鉄による武器が支給されている。この情報はまだ相手に届いていないはずだ」

「もしもの衝突が始まっても、まず憂いはないということだな。むしろ現状なら、向こうがとち狂ってちょっかいをかけてきてくれた方が、我が国にとって有利な展開になる公算が大きい。戦端を開く場所はカスケル川流域の緩衝地帯とほぼ特定されるが、そこへ大きな兵力を集めさせて撃破できれば、まず向こうの敗残兵力は自治領の北を通って本国に逃げ戻るしかない。結果、我が国がリゲティの領有を取り戻すことができる可能性は十分にある」

「その顛末が十分に予想できるのだ、かの隣国がこれ以上そんな暴挙に出ることは考えられないだろう。今以上に大きな増兵を続けるようなことになれば、五カ国協議のテーブルに乗せられることになるしな」

「そういうことになりますね。しかしそうすると、この時点でこの動き、かの国は何の目的を持っているのでしょう」


 ヴァルターの問いに、うん、と王太子は熟思の貌で頷いた。


「分からない、というのが正直なところだがね。せいぜいが牽制か嫌がらせ程度なのではないかと思う。先の通商会議で我が国を追い詰める試みに失敗して、それどころか逆襲を受ける結果に終わったわけだからね。何というか、その鬱憤を何処かで晴らしたいのではないか」

「とはいえそれこそ、それ以上暴挙に踏み切るまでは想像しにくいわなあ」

「まずあり得ないだろう。ゆめゆめ油断するわけにはいかないわけだが」


 そんな感想が交わされたが。軍事関係については、あまりこの部署としては関与のしようもない。

 それにしてもシェーンベルク公爵領といえば最近別の話題ももたらされていたな、と思い出し、情報をいくつかゲーオルク経由で送っておくことにする。


 翌日には庭師に問い合わせ、継続栽培していた作物のいくつかの生育を確認した。

 シロカオバナの塊根を収穫して茹でたものを試食してみたところ、一応わずかな甘みがあって腹持ちもよさそうだ。ラッヘンマン侯爵領と周辺の領に情報を送り、栽培を勧めていくことにする。種子を採るための注意、苗床を使う育成の勧め、品種改良の方向性、などを伝えておく。

 侯爵領の南隣りになるベルネット公爵領から、さっそく研究を進めていく、との返答があった。相変わらず、新しもの好きの領風だ。

 キナバナについても、やはり油が採れる見込みが高そうだ。見本を送ってもらったグロトリアン子爵領と、隣接するロルツィング侯爵領、アドラー侯爵領に情報を送り、研究を進めることを推奨しておく。


 この週の空の日、宰相と父が昼過ぎまで所用があるということで、恒例の報告会は夕方に行うことになった。

 父とは毎日のように昼食を共にしているが、宰相と会うのは久しぶりだ。二週前の空の日には報告会が中止になって、その日の午後に第四妃に誘拐される騒動が起きた。先週は僕が実家で休養中、ということになった次第だ。

 一度後宮に戻って休息した後、午後の八刻を目指して改めて出かける。執務棟で会った父に抱きかかえられ、この日は宰相の執務室を訪ねることになった。

 新しい作物の見込みを報告すると、宰相は満足そうに頷いている。


「うむ。そのシロカオバナについては、我が領でも栽培を試していくことになった。しかしまあ、ベルネット公爵領が研究に乗り気だということを聞いているから、そちらに任せていいだろうな。あの領の得意分野だし、研究結果を出し惜しみする公爵ではない。ある程度品種改良の目処が立ってから広める、という方針でもよかろう」

「ん」

「キナバナの製油か、これはロルツィング侯爵領とアドラー侯爵領に任せるということでよかろうな。うまくいくようなら、これこそもっと他にも広めたい。植物油の国内での生産が増えるとなったら、貿易上でも大きな意味を持つ」

「だね」

「まあ、ここしばらくアドラー侯爵領は、そのような方に目を向ける余裕が持てないかもしれぬが……」


 宰相の表情が固くなるのは、リゲティ自治領問題のせいらしい。

 昨日辺りからダンスク軍が、自治領からシェーンベルク公爵領との境界へ向けて少しずつ移動している、という情報が入っているという。

 それに応じてこちらも、シェーンベルク公爵領兵の準備を進めるのはもちろん、国軍とアドラー侯爵領兵の移動を開始しているらしい。


「大事ないとは思うが、どうにも向こうの意図が読めぬ。しばらく緊張が続くことになりそうだ」


 そんな確認をしていると、扉にノックがあった。


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