第20話 赤ん坊、調理を教える 2

「えーーーー?」

「何これーー?」


 ウェスタとベティーナの、合唱だ。

 駆けつけると、布巾を開いたボウルを囲んで、三人が目を丸くしている。


「どんな様子だ?」

「それが、ぶくぶくになっちゃって」

「気味悪いですーー、何か悪いこと起こってるんじゃないですかーー?」


 ウェスタとベティーナの口々の説明に、ボウルを覗き込む。

 兄も初めて見た現象に驚いたはずだが、打ち合わせのものと比較判断して、落ち着いた返事をした。

 女二人の慌てぶりに、逆に冷静になってしまったのかもしれない。


「これでいいんだ。ただ、もう少しかな。大きさが二倍を超えるくらいまで、待ってみよう」

「は、はい」


 こちらも自分が狼狽えてはみっともないと判断したらしく、こくこくとランセルは頷いてみせた。

 もう一刻ほど待って、生地は元の二倍以上に膨らんだ。

 また板の上に出して、膨らんだ気泡を少し潰すように優しく生地を延ばす。

 平たく広げた後、前後からと左右から、それぞれ三分の一くらいずつを上にたたんでいく。


「これをまた、一刻くらい寝かせる」

「はい」


 その後で最終的に作りたい形に整形するのだが、ここは従来からのパンに合わせて、丸ごと一つの楕円形にまとめておく。


「これをまた二刻以上、二倍に膨らむまで寝かせて、石窯で焼くんだ」

「はい」


 ようやく残りの調理の見当がついたと、ランセルはやや安堵の表情になっていた。

 二刻経つと、狙い通り生地は二倍程度に膨らんでいた。

 そっと指先でつついて、ウェスタはおっかなびっくりの顔になっている。


「何だか頼りないというか、柔らかすぎじゃないですか、これ」

「石窯で焼いたら、爆発しないですかあ?」

「……大丈夫、だと思う」


 女二人の不安な指摘に、兄は力のない返答をした。

 誰もが初めての経験なのだから、自信を持てるはずもないのだ。

 熱した石窯に入れると、ほどなく芳ばしい香りがしてきた。

 ただし、香り自体はいつものパンと大きく変わるものではない。

 一刻ほどで、焼き上がり。

 窯から取り出したパンを、柔らかさに苦労しながらランセルは両断した。

 ますます温かく芳ばしい香りが立ち昇り、びっしり気泡の入り組んだ断面が現れた。


「わあ」

「おお」


 期待に満ちた、喚声が上がる。

 断面から薄目に切り取った一片を、ランセルの庖丁が四等分。

 一片ずつを受けとった立会人一同が、同時に口に入れ、目を丸くした。


「何、この柔らかさ?」

「ふわふわーー」

「口で溶ける……」


 さらに小さく指先ほどに千切った一片を、兄が僕の口に入れてくれた。

 まだ乳離れしていない僕にとって、生まれて初めて口にした固形物だ。しかし外の部分を避けた最も柔らかな内側なので、苦もなく飲み込むことができる。

 黒小麦の独特な風味も気にならないな、と秘かに頷く。


「これなら、ぼそぼそや妙な匂いも気にせず食べられるんじゃないか?」


 兄の問いかけに、ただうんうんと、三人は頷いた。


「これなら黒小麦も、おいしく食べられますう」

「白小麦のパンでも、こんなふわふわでおいしいの、食べたことないですよ」

「これって、さっきの不思議な液のせいなんすよね。ウォルフ様、あれいったい何なんです? よっぽど値が張る――」

「ヤマリンゴの皮と芯を、水につけたものだ」

「リンゴの皮と芯? そんな身近って言うか、余り物みたいなので?」

「天然酵母と言うんだそうだ。果物とかを水につけて、一週間ほど温かいところに置いておけばできる」

「そんな簡単に?」

「ウォルフ様ウォルフ様、こんなおいしいの、奥様にも食べていただきたいですう」


 呆気にとられているランセルをよそに、ベティーナが手を振って言い出した。


「そうだな。イズベルガを呼んできてくれるか」

「はあい」


 一声上げて、たちまちベティーナが駆け出していく。

 すぐに戻ってきた声は、その落ち着きのなさを叱るメイド長が先に立ってのものだった。


「ウォルフ様、何か」

「ああイズベルガ、これを母上に――あれ?」


 兄の声が奇妙に跳ね上がったのは。

 その当人の顔が二人に続いて戸口に現れたためだった。


「母上、出歩いて大丈夫なのですか?」

「この何日かはたいそういいんですよ。今両方の戸を開いているから、二階までとんでもなくいい香りがしてくるんですもの。堪らなくて来てしまったわ」

「はは……」


 すぐに母とイズベルガにも焼き立ての味見用が渡されて、口にした二人が目を丸くしていた。

 一人だけ除け者は可哀相だと、ベティーナがヘンリックも呼びに行って、結局屋敷の全員で味見をした結果、新しいパンは絶賛を受けることになった。

 さっそく今夜から、量は少なくても夕食でみんなで分けていただきましょう、と母が宣言して、大きく頷いたランセルが動き出す。

 それを受けて、兄はウェスタに声をかけた。


「じゃあこれから継続して天然酵母を作ってほしいから、ウェスタに作り方を教えるよ。俺の部屋で日にちをずらして作りかけのもあるから、あとで持ってくるので続きから頼む」

「かしこまりました」

「それと、ランセルと二人で安定してこのパンを作れるようになったら、村のみんなに教えに行ってもらうから、そのつもりでいてほしい」

「ああ、はい。かしこまりました」

「すごいですねえ。村の人みんながこれ、作れるようになるんですねえ」

「ああ、そのために考えたんだからな」


 感激するベティーナに、兄が笑い返す。

 その様子をそっと母が満足げに見ているのが、視界の隅に映った。


「何とか、うまくいったな。終わりよければみんないいって言うけど、大変だったぞ」

「ごくろ、さま」

「もっと早く言ってくれれば準備できたのに、今日のための台本をいきなり昨日言い出すんだもの。お前、あの酵母の用意は前からしていたくせに」

「はは」


 恒例となってきている、夜中の兄の部屋での打ち合わせ。

 この日はぐったり疲れた兄の愚痴から始まった。

 ランセルたちへの説明はすべて兄に任せるしかなく、今日のものはかなり複雑で繊細な注意が必要だったのだから、大変だったのはまちがいない。

 また、天然酵母のことも言われる通りで、一週間前に兄にヤマリンゴの捨てる部分を手に入れてもらった後は水につけて兄の部屋の棚に置き、「触らないで」とだけ注意して後の説明を拒否していたのだ。


「こうぼ、じしん、なかった」

「そうなのか?」


 実はこの経緯で最も当てがなかったのが酵母の成功なのだ。

 自分で作ったことがないのはもちろん、もしうまくいかなくても誰にも相談できない、どう改善していいか想像もつかない。

 何しろ、この世界に存在しているものかどうかも分からない。

 兄に訊いたところ王都での白小麦のパンもかなり固いということだったので、ほぼこの世に存在しないものとの前提で手をつけるしかなかったのだ。

 だから、失敗の可能性が高い予想で、事前に兄には説明しなかった。

 酵母ができてからの実際のパン作りは、曲がりなりにも料理人たちに近いことの経験はあるはずなので、多少の失敗はあっても挽回可能だと思った。


 なお、兄には説明のしようがないのだが。

 この過程で、僕の身にはとんでもないことが起きていた。

 黒小麦の利用、パンの改善、と『記憶』に何度か問いかけていたら。

 七日前だったと思う。就寝中の夢の中に『記憶』が人の姿をとって現れたのだ。

 容姿顔つきは明瞭でないのだが、とにかく人の姿をした存在として。

『一度しか説明しないから、小僧、しっかり覚えるのだぞ』

 開口一番、そんな宣言をして。

 天然酵母の作り方と、パンの作り方を、目の前で実践してくれたのだ。

 果実を水に混ぜたものは、毎日一度よく振る。

 しゅわしゅわと泡が立つようになり、この程度まで落ち着いたら酵母の完成。

 パン生地はこの程度までこねる。

 見た目この程度になるまで発酵させる。

 といった、言葉だけでは到底できないことを教示してくれた。

 さらに、

『天然酵母は結局微生物だから、そちらの世界にその微生物がいなければ無理かもしれない』

『黒小麦はライ麦に近いという予想でパン作りを指導するが、他の麦だったとしたらまったく意味ないからそのつもりでいろ』

 などという、何とも心強いつけ足しをしながら。

 何でも『記憶』の世界では、ライ麦という種類ならふつうの小麦と同様にグルテンだか何だかを含有していて、酵母で膨らむ可能性がある。エンバクとかそんな種類なら絶望、なのだとか。

 実際には『ライ麦でもそれほど膨らみは期待できない』という付言を裏切って、感激するほど柔らかく膨らんでくれたのは、いい方向の誤算だった。

 それにしても、突然現れた『記憶』――そう言えば、この呼び方でいいのか、本人に確認していない。まあ、いいか――の傍若無人ぶり、人間臭さは、拍子抜けで呆気にとられるレベルだった。

『何でオレがこんなこと――』

『ありふれた天然酵母パンの作り方など延々とやっても、誰にも受けねえぞ』

 などと終始ぶつぶつ宣いながら、結局丁寧にご指導くださるのだ。

 感謝感激しながらも、起床後どっと疲れが沈み直ってくる、そんな一夜だった。


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