第165話 赤ん坊、嫌がる

 翌日から。僕は正式に男爵の身分になったことになる。

 周囲の者たちは特に態度が変わるということもないのだけど。

 朝、執務棟の廊下で顔を合わせた騎士団長が、にこにこと笑い顔を向けてきた。


「やあ、ルートルフ卿。ご機嫌いかがですかな」

「あ、おはよう、ごじゃます」


 聞き慣れない呼称を受けて、口回りがもたついてしまった。


「叙爵ということで、めでたい限りだ。卿には今後もますますの活躍を願いたいもの」

「はあ、ども」

「これまでいろいろ恩恵にあずかった経緯もあるからな、今後こちらからもできるだけの協力をいたそう。聞くところでは新領地の予定も我が領と近いとのこと。卿にはいっそうの交誼を願いたいところだ」

「はあ。――その『きょう』というの、おちつかないのだけど」

「これは慣れねばいかんぞ。今後我々はそう呼ぶし、目下の者からは『閣下』と呼ばれることになる」

「わあ。ますます、むずがゆい」

「わはは」

「だんちょかっか、おもしろがってるね」


 いつも豪放な髭面が、すっかり笑いに緩んでいる。

 こちらが嫌そうに顔をしかめていると、ますます楽しげに目元が細められる。


「はは、許せ。ここしばらくの希望が叶って、嬉しくてならんのだ。この件も、ずっと宰相閣下にせっついていたものなのでな。ルートルフ卿にはその功を公にして、立場を確立してもらわねばならぬ」

「それは、ども」


 今回の件は、この人の後押しも大きかったらしい。

 感謝していいものやらどうやらだが、礼を言っておく。


「それと、領地の協力については本気だぞ。領主が代わるとなれば、しばらくは落ち着かずごたごたもあろう。人手を貸すなり睨みを利かすなり、何なりと助力しよう。遠慮なく言ってきてくれ」

「ども。そのおりには、よろしく」


 昨日改めて宰相から提示された資料によると、僕に与えられる領地の候補、元クーベリック伯爵領の一部というのは、騎士団長アドラー侯爵領、ロルツィング侯爵領、王領に囲まれている。さらにベルシュマン子爵領から王都に向かう街道を、数ママータ程度逸れて寄り道すれば入ることができる。

 エルツベルガー侯爵を加えた三侯爵領と子爵領で協力して農業の研究を行っている地帯の一角に入るので、その点でも利便がある。

 領地経営など僕には荷が重すぎる、と当初考えていたのだが、少し食指が動いてきたところだ。農業関係では、まだまだ試してみたいことが出てくる予定なので。

 父や騎士団長の協力が期待されるなら、可能性も膨らみそうだ。現地の采配を任せられる人材の当てがつくなら、前向きに考えてもいいかもしれない。

 まあまだしばらくは検討させてもらう、と頭を切り替えながら、話題を変えた。


「それにしても、じょしゃくのけん、もうしれわたっている?」

「うむ。王宮内には昨日の夕方、宰相閣下からの文書が出回っていたのでな。こうした内容についてこんな告知の方法は、初めてのことだ」

「ああ」



 聞くと、宰相としても物は試しと、王宮に新設された印刷部を動かして文書配付を実行してみたということらしい。

 あまり表情態度には表さないがあの御仁、そこそこ新しもの好きの性格をしているようだ。

 とにかくも今回は、早急に情報が出回るように配慮したということだろう。


「では、また」

「は」


 陽気に笑い、僕の乗るオオカミの頭を一撫でして、団長は歩き去っていった。

 数ヶ月前に男爵領の山中で共闘態勢をとったことを覚えているようで、ザムも団長のこの程度のスキンシップは受け入れている。


 昼食を共にしながらの父の話では、昨日領地の母たちに鳩便を送ったとのこと。

 僕の叙爵について、母はたいそう喜んでいるということだ。

 今朝来た返事では、今週末に母は王都に出てくるという。

 もともと兄の貴族学院入学に向けて来週にはこちらに来る予定だったのだが、今回の件を受けて早めることにしたようだ。

 気がついてみるともう九月の三の週で、学院開学まで半月を切っている。


「当のウォルフは、まだ領地でやることがあるので遅れてくるそうだ」

「そ、なんだ」


 領民たちと秋蒔き小麦の準備を進めているところだし、冬を迎える前にディモと森に入って野ウサギの状況を確かめておきたい、という。

 最近は訓練を積んで乗馬にも慣れてきたので、来週には護衛と駆ってくるということらしい。


「今年は夏の天候不順が少なく白小麦の収穫も持ち直しているし、黒小麦やゴロイモも例年以上に積極的に育成しているので、農民たちの豊作感が強いようだ。秋蒔き小麦は初めての試みで当てにならないわけだが、皆気持ちに余裕があるので喜んで協力しているらしいぞ」

「ん、よかった」


 同じ北方でしばらく前から生産をしているというエルツベルガー侯爵領から秋蒔きに向いた小麦の種を分けてもらって、子爵領でも試行を始めるところなのだ。

 そちらの生産地よりさらに北になる西ヴィンクラー村でうまくいくかどうかは、何度か試してみなければ分からないと思われる。

 その他にも、製塩作業は量を抑えながら通年続けている。領が発注する業務で、西ヴィンクラー村の村民は交代で継続参加している格好だ。

 野ウサギ猟については兄とディモと護衛数名がそこそこ慣れ、腕も上げて安定した数を狩れているらしい。

 黒小麦とゴロイモの収穫量も上がっているので、今年の冬場はまた王都でコロッケの販売を計画している。こちらは村の女性たちの出稼ぎの当てということになるようだ。

 残った村民の冬の生活は主に、製塩と秋蒔き小麦の世話、クロアオソウの小屋での栽培で過ごすことになる。

 また、炭焼きの設備を整えることができて従業者も増え、量と質が上がっているそうだ。

 僕はまだ現地を見ていないのだが、旧ディミタル男爵領の三村でも気候状況は同様で、白小麦などの収穫量はまずまず。他に製糖や製紙業が盛んになって、領民たちの生活は潤っているという。


「ルートルフが書き残してくれたメモが役に立っているし、何より最近では製紙場の稼働が大きい。息子たちのお陰で、子爵領では活況が続くことになりそうだ」

「よかった。にーちゃ、よくがんばった」

「そうだな」


 実を言うと、この二ヶ月あまり僕はもちろん、父もまったく領地に帰ることができないでいる。

 ナガムギ加工の普及や王都でのさまざまな新しい動きへの対応、さらには子爵家で商会を興すなど、目の回る忙しさだったから。

 ……かなりのところ、僕のやらかしたことのせいがあったりする。

 母からは、冗談混じりに恨み言が届けられているらしい。

 ともかくもそのため、この夏にいろいろ領地で実現した新機軸については、ほぼ兄が陣頭指揮をとることになっていた。

 ここにきて、かなり好結果が目に見えてきている。従来の領地ではもちろん、新領地でも次期領主の評判は高まりを見せる一方なのだそうだ。

 今年の事業の結果が出てこのまま安定すれば、少なくとも兄が学院在学する数年程度以上は安泰が見込まれる。むしろまだまだ発展の芽が見えているほどで、明るい見通しを期待してよさそうだという。


「近頃王都での貴族間の話題はルートルフの成したことがもっぱらだが、最北の子爵領の盛況についてもかなり知れ渡ってきているところだ。学院入学前とは思えぬ長男の手腕、と私もたびたび話を訊かれている」

「しゅごい」

「まったく、自慢の息子たちだな」


 スープを口に運びながら、父は満足げに笑っている。


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