第105話 赤ん坊、仮合格を出す

 一つ予定を終えて、次は印刷執務室を見にいくことにする。

 戸口前の護衛二人も連れて、ぞろぞろと移動。隣の棟への渡り廊下横の階段に差しかかったところで、


「あ、ルートルフ様――」


 妙に引きつったような声をかけられた。

 見ると、衛兵一人に連行されるように昇ってくるのは、ラグナだ。

 話によると、ふだんより少し遅い時間に裏門へ来たところ、作業場が中に変更になったと門番に言われ、衛兵に引き渡された。初めて入る王宮建物内の豪華さに、何処へ連れていかれるものかと生きた心地もしないままふわふわ歩いてきたのだとか。

 苦笑して、ヴァルターが「ご苦労様」と衛兵から獲物を引きとる。


「ちょっと問題があってね。君たちの安全のためだ」

「そう……なんすかあ……」


 少年の浅黒い顔が心なしかいつもよりかなり色薄く見えそうなほど、青ざめ震えている様子だ。

 まあ子どもたちの安全を図ったとはいっても、一班の二人とラグナが狙われるという要素はまず考えられない。彼らの相談だけなら、別に王宮に集まる必要もない。

 今後は彼らの活動の拠点として、アイスラー商会あたりに場所を借りる算段をしてもいいのではないか。そんな話をヴァルターと交わしながら、隣の棟に入った。


 印刷執務室は中で十人以上は作業ができそうな、小会議室といった程度の広さになっていた。王宮内としては異例な、木工作業に違和感のない簡易な机類が並べられている。

 すでに木彫りと印刷に必要な機材が移動されて、ウィラとイーアン、一番弟子の四人が並んで板を彫っていた。その上司となる文官も、書類仕事をしながら見守っているらしい。

 離れた机で、ホルストとイルジーが木を削っている。

 僕たちが入室すると、一斉に頭を下げてきた。

 間もなく見習いを終えて王宮内印刷作業の先駆けとなる予定の四人とその上司には、この機会に僕の実態を隠すのはやめることにした。

 この辺かなり曖昧になってきたが、僕の情報は王宮内、貴族の間にはかなり公開されている。あとは市井の方にはまだ当分秘匿しておこうという感覚だ。

 そもそもここにいる四人も、直接会話をしたことはないがここしばらく遠目にザムに乗った僕の動きは見ていたようで、ほとんど実態に気づいていた節がある。僕が「きのう、だいじょぶだった?」などとウィラとイーアンに話しかけても、驚く様子もない。

 現状、ウィラとイーアンは物語本の版木作成を継続しているが、弟子の四人は役所書類中心にシフトしているという。

 ウィラ、イーアンの二人に話を聞き、隣の四人の作業を覗く。

 その向こうから上司が立って、頭を下げてきた。

 先日話していた『この二人のお師匠』が僕であることを、承知しているようだ。


「どうでしょう。この四人の者たち、合格をいただけそうでしょうか」

「ん」


 もったいぶって、作業中の彫り板に顔を近づける。

 とはいえ、ここのところ完成品として運ばれてきた絵本や物語本の出来を見る限り、不満はない。あれらすべて、ここにいる全員の合作だと聞いている。


「ほりのできは、じゅうぶんごうかく。あとはそくどについて、こちらのぶしょでひつようにおうじてせっていして、まもれるようにして」

「畏りました。ありがとうございます」


 大きく頭を下げて、作業員たちに「お前たち、仮合格をいただいたぞ」と声をかけている。

 四人は一斉に、「うし!」と笑顔で拳を握っていた。

 笑って、僕は子どもたちを振り返った。


「うぃらといーあんも、しどう、ごくろうさま」

「「はい!」」


 笑顔で頷き、それでもすぐに作業に戻っている。

 部屋の逆側へ移動すると、ホルストとイルジーの前にラグナが金属製品を並べているところだった。昨日話したバネのサンプルをいくつか用意したようだ。今日の顔出しがいつもより遅くなったのも、これが理由だろう。


「ほるすとといるじー、きのう、けがなかった?」

「ああ、はい」

「ちょっと殴られたけど、大丈夫です」


 二人とも、女の子を庇おうとしてチンピラたちに蹴り倒されていたはずだ。

 それでも本当にたいした怪我などはなかったらしく、イルジーは頬にかすかな擦り傷を残しているが、快活に笑っている。

 ラグナが用意してきたのは、従来からあるコイルバネがいくつかと、僕が提案したねじりバネの試作品だ。

 目を輝かせて、イルジーはそれらを次々と手に取ってみている。

 ホルストは昨日の設計から試作したという『洗濯挟み』にねじりバネを宛がって、強さや大きさの調整をラグナと相談している。

 すぐにもいくつか実用化されそうな勢いだ。

 その調子で頑張るよう励ましの言葉をかけて、その場を離れた。


「ホルストたちの作業場所について、午後からアイスラー商会に相談に行ってきます」

「ん、おねがい」


 ヴァルターと話しながら、執務室に戻る。もう昼食休憩が迫っていて、ナディーネはその準備に動き出していた。

 この日は父が都合が合うということで、食事を一緒にとろうという連絡を受けている。

 間もなく、昼食一式を抱えた側付きを伴って、父が訪ねてきた。

 応接テーブルに向かい合って、スプーンを手にする。

 父の話では、ゼルキン村で製紙業指導の一行を迎える準備が調った旨の連絡を受けた。ヘルフリートとともに兄もそこに参加するべく出向いているそうだ。


「さっき来た鳩便では、ウォルフとヘルフリートで紙の活用について話して、二人ともその可能性の大きさに改めて驚嘆している、ということだ」

「ん」


 他には、子爵領の四村とも今年は農作物の生育が順調で、領民の顔に明るさが見られる。加えてゼルキン村と南ゼルキン村では、今回の製紙場稼働に期待が膨らんでいるという。

 税の支払いに不安がなく、さらに収入増の期待が持てるなど、かなり年輩の領民にとっても過去に記憶がない慶事だそうだ。


「思い返してみると、つい半年少し前には、こんな形で夏を越すことになろうとは想像もつかなかった。最悪あのままだと、今頃は領地の一部を手放さねばならぬ瀬戸際に追い込まれていたのだからな」

「ん」

「すべて、お前とウォルフのお陰だ」

「よかった」


 に、と笑うと、唇の端からひと滴スープが零れてしまった。

 笑って、父が手を伸ばして拭ってくれる。


「この半年の目まぐるしさも大概ではないが、ここまでのひと月はなおさらだぞ」

「えと……ん、だね」

「分かっているか? この七の月の初日にお前が王宮入りして、明後日がようやく月の末日だ」

「ああ、そか」

「明日、五の空の日が王宮の給与日なのでな。それを確認していて、改めて一驚してしまったわ。このひと月足らずの間で、荷車や紙の生産が現実のものとなり、こちらではナガムギの商品化が動き出している。どれも、月初めには誰一人想像さえしていなかったことだ」

「ああ……」

「そう言えば、ルートルフの給与もこちらに支払いが回ってくることになっているが、どうする?」

「あ、ん、あずかってて」


 成人前の子どもの勤務について、王宮で定まった規定はない。給与の支払いに際しては本人の受け取りサインが必要だが、一歳児のサインの有効性について、誰も保証のしようもない。

 そんなこもごもの理由で、僕に対する給与は父の方に支払われると、事前に知らされていた。

 後宮の生活で特に現金を持つ必要はないし、金庫などの設備も持ち合わせていない。ここは親に預かってもらうのが最も現実的なのだ。


――まあ、給与だけなら、たいした金額ではない。給与だけなら――。


 僕が微妙な表情をしていると、正面から父が覗き込んできた。


「どうした? 何か懸念があるのか」

「ん……」

「何だ」

「……ねんまつごろには、とんでもないこと、なるかも」

「どういうことだ」

「とっきょしようりょう」


 説明が煩雑なので、傍らの文官の方を見る。

 つられて、父の目もそちらを向いた。


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