第106話 赤ん坊、採用する

 心得て、ヴァルターは机から資料を取り出していた。


「子爵閣下には前もって承知していただく必要がありましたね。今のところルートルフ様の名義では、荷車車体と製紙と版画印刷について、特許申請が進められています。このうちたとえば製紙につきましては、売上げの一割が特許料に充てられ、その二分の一がルートルフ様に配分される予定です」

「うむ」

「販売価格などはまだ未定なのですが、おそらく当初のところ、紙一枚で百ヤーヌは下らないと思われます。そして近近の目標としまして、全国で紙の生産量は一日三万枚にのぼる予定で、ここまでは確実に王宮で買い上げることになっています」

「ふ……む。百ヤーヌが三万枚、その一割の二分の一……?」

「つまり……ルートルフ様に入る特許料は、一日当たり十五万ヤーヌが見込まれるということになります」

「一日十五万ヤーヌ?」

「特許使用料は三ヶ月ごとの締めで精算されることになっており、この七の月から九の月までの分が、通常通りであれば十二の月に支払われます。まあこの七の月には実状売上げがありませんから、八の月九の月の二ヶ月分ということになるでしょうが」

「う……む」

「大雑把な計算で、十五万ヤーヌの六十日分だと、九百万ヤーヌということになりますね」

「……それだけで、本来入るはずの子爵領の年間税収を超えているぞ」

「はは……」

「これに、荷車と印刷の分が上乗せになります」


 大きな、溜息。

 掌で額を押さえて、父は僕の顔を覗き込む。


「お前、その金額も父に預かれと言うのか」

「ん。りょうのけいえいにやくだてて」

「そんな巨額の金、恐ろしくて使えないわ!」


――何とも貧乏性の子爵様だ。


 もう少し大きな領、侯爵領規模なら、ふつうに運用されている程度だと思うのだが。

 これがもし一時的な収入、いわゆる『あぶく銭』の類いだとしたら、継続的に当てにした使い方はできないだろうが、そうではないのだ。

 紙に関して、当初の単価はそのうち下がるだろうが、売上げ数はしばらく増え続ける。何処かで減少に転じるということは、まず考えられない。他国まで普及したら、なおさらだ。

 荷車も最初の生産数はそのうち落ち着くだろうが、その後まちがいなく安定的に売れ続ける。

 印刷に関してはおそらく、半永久的に拡大の予想しか立たない。

 それぞれに関して誰か他者がこれを上回る技術を開発したとしたら別だが、『記憶』を探る限りまず当分あり得そうにない。

 特許権が適用される規定の五十年間、どれに関してもまず収入の減少はあり得ないと思われるのだ。

 これらを資産として眠らせていても仕方ない。効率的な活用を考える必要がある。

 一通り、そんな想像を頭に巡らせたのだろう。数呼吸分の沈黙の末、また深々と父は息をついた。


「まあ、今考えるのはやめよう。実際に金額が定まったわけでもない」

「ん。かくごだけ、しておいて」

「……分かった」


 ほとほと疲れた様子で、父は引き上げていった。

 僕のせい、なんだろうなあ。


――でも僕、悪くないと思う。


 結果親不孝になる、子爵領に悪影響を及ぼす、ということにだけはならないように気を払っていたいと思う。

 そんなことを考えながら、この日は後宮に戻ることにする。

 ヴァルターと打ち合わせをして腰を上げようとしていると、文官は「ああ」とやや声を高めた。


「忘れるところでした。朝方、アイスラー商会から届け物がありました。ルートルフ様が依頼していた色インク、とりあえず赤だけができ上がったのだそうです」

「おお」


 受け取った小さな壷の蓋を開くと、確かに鮮やかな朱色の液体が覗く。

 今までこうした色つきインクが存在しなかったわけではなく、絵画用の絵の具もそれなりに出回っているわけだが、依頼した通りのものならかなり製造費用が抑えられているはずなのだ。

 品質が実用レベルに達しているなら、カラー印刷への道が開けてくる。

 上機嫌で僕は、その壷をナディーネに持たせた。


「へやで、ためしてみる」

「はい。私はこの後商会へ出向いてきますので、製造の詳細について確かめてきますね」

「ん、よろしく」


 部屋に戻ると、ニコールが扉を開けてくれた。侍女三人が机で作業をし、護衛は戸口近くに立っている格好だ。

 原稿は物語本の四冊目に入っている。

 メヒティルトの文字筆写を確かめ、カティンカとシビーラの挿絵案を見て承認を出す。それぞれ、問題なく進行しているようだ。

 いつものテーブル席に着くと、ナディーネが白湯を持ってきてくれた。

 運んできた赤インクの壷も、テーブルに置かれている。


「なでぃね、ぺんとほごがみもってきて」

「はい」


 侍女たちの作業場所の傍らに、「反故ほご紙箱」というものが置かれている。製紙段階の失敗で破れかけなど品質の低いものや、書き損じで正式には使えないが片隅や裏面にならまだ何かしら書くことができる、という紙を入れているのだ。

 そこから出してきた反故紙に、ナディーネに赤インクの試し書きをさせてみる。


「わ、ちゃんと書けますね」

「綺麗な赤ですねえ」


 満足そうなナディーネの横から、他の侍女たちも感心して覗き込んでいた。


「うん、つかえるね」


 僕も満足して、大切に壷の蓋を閉じさせた。

 満足――だけど、今すぐの使い道がない。

 黒よりも目立たせたい字の筆記、注釈や添削、など将来的にはさまざまな用途が考えられるが。今はともかく、紙を普及させてふつうに平凡な筆記に慣れさせることが最優先なのだ。

 もう少しインクの粘度を上げれば二色印刷を始められるかもしれないが、それも当分、要研究だ。

 それでも少しは心楽しく想像を巡らせ、『記憶』にも関係しそうな知識を求めてみる。

 考えながら両手で持ったカップの白湯を口に運んでいると、同僚たちの方へ戻ったナディーネが振り返ってきた。


「そう言えばルートルフ様、これはどうするのですか」

「ん?」

「昨日はいろいろごたごたして、そのままにしていたのですけど」


 持ち上げて見せたのは、白い紙の束。

 裏庭の作業小屋にしばらく放置されていた、失敗作の紙が十数枚だ。

 特に破れたり穴が開いたりしているわけではないが。シロトロを導入する前の試作品で、ばりばりに固いでき上がりなのだ。折り曲げることも丸めることもできない。無理にしようとすると割れてしまう。

 それでもインクが乗るのだとしたら、何かしら使い道はあるだろうか、と考える。と。

 妙に気乗りしない様子で、『記憶』氏が伝えてくる情報があった。

『あまりに定番過ぎて、面白くねえ』などと、わけ分からないことをのたまいながら。


――いや、『定番』って何やねん。


 そちらではありふれていても、こっちで有用ならば、それでいいわけで。

 侍女たちに訊ねてみたところ、この国に似たようなものはないらしいので、採用することにする。


 ナディーネに指示して、まずその紙を八等分させる。

 七枚使って作業させ、小さな札が五十六枚できた。

 その一枚の片面左上に、黒インクで「▲1」と記入させる。

 あと同様に、「▲2」から「▲13」まで一枚ずつ書かせる。

 そうして札の中央部に、「▲1」には大きめの▲を1個、「▲2」には2個、……「▲13」には13個、と記入させる。

 次には同様に、「◆1」から「◆13」まで記入。

 それから同じく赤インクを用いて、「▼1」から「▼13」まで、「●1」から「●13」までを作らせた。

 その他カティンカに指示して、一枚の札の中央にそこそこ写実的なオオカミの顔を黒インクで描かせる。

 少し興が乗ってその毛並みに赤線を加えさせると、ますます真に迫った赤茶色のオオカミを思わせるできになって、侍女たちが歓声を上げていた。

 以上で、53枚の札が完成だ。


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