第36話 赤ん坊、家族と朝食をとる
その夜、僕は両親に挟まれたベッドで寝ることになった。
母の左脇に僕、その後ろにミリッツァ、その向こうに父、という順に並んで横になる。
基本的に貴族の子どもは一人部屋で就寝するのが倣いだが、今夜だけは母が僕を離したくないという特別処置だ。
背中に貼りつくミリッツァはたちまち満足そうな寝息を立て始め、いつもにもました温かみに僕もとろとろと眠りに落ちていく。
それを妨げない優しさで母の手が髪を撫で、次いで背中に密着する頭も探っている。
「話には聞いていたが、ミリッツァのルートルフへの懐きぶりは驚くばかりだな」
「ええ。あちらの家に馴染むまで苦労するかと思いましたが、ルートルフのお陰で本当に助かっているのですよ」
「本当に、よかった」
「はい」
背中から戻ってきた掌に、もう一度髪を撫でられ。
そんな父と母の囁き交わしも、徐々に意識の裏に溶けていった。
母の香りに包まれて、前夜のような悪夢に襲われることもなく。
朝の目覚めも、爽やかなものだった。
肩口に染み広がる湿りも、鼻先の温かな柔らかみも、それぞれ心地よく、僕はしばらく幸福な夢うつつにたゆたっていた。
そうしているうち、扉に静かなノックがあった。
「お早うございまあす」
声をひそめて入ってくるベティーナに、母も「お早う」と笑いかける。
背後のミリッツァも父も、まだ静かな寝息を立てているようだ。
そんな父を起こさないように、母は静かに僕とミリッツァを順に抱き上げてベティーナに渡す。
「二人をお願いね」
「かしこまりましたあ」
足音も立てないように寝室を辞して、ベティーナは僕の部屋に移動する。
そこでミリッツァのおむつを替え、二人の身だしなみを整えるのだ。
支度が終わって抱き上げられたところで、僕はぱふぱふとベティーナの腕を叩いた。
「にいちゃ、にいちゃ」
「何ですかあ、ウォルフ様に朝のご挨拶ですか?」
「ん、にいちゃ」
「分かりましたあ」
両手に二人の赤ん坊を抱いて、ベティーナは隣のドアをノックした。
「お早うございます。ウォルフ様お目覚めですかあ」
「おう、お早う」
目覚めたばかりらしく、兄はベッドに身を起こした格好だ。
ベッド脇の床から、ザムも嬉しそうに首をもたげる。
そちらに向けて、僕は両手を伸ばした。
「にいちゃ、にいちゃ」
「ん? ルート、こっち来るか?」
こちらの意を汲んで、兄は僕をベッドの上に抱き下ろしてくれる。
ご機嫌にシーツをぱたぱた叩いていると、兄は苦笑の顔をベティーナに向けた。
「こいつは俺が連れていくから、先に降りていてくれ」
「分かりましたあ」
笑って、ベティーナはミリッツァを抱いて出ていく。
ばいばい、と手を振ってやると、にこにことミリッツァも手を振り返してきた。
最近はこの程度、短時間離れても泣かないようになっているのだ。
「で、何か緊急の相談事か?」
「ん」
二人が出て扉が閉まると、兄は着替えをしながら訊ねてきた。
当然いつもの習慣で、僕の行動の意図に気づいてくれているのだ。
僕が自分の決意を告げると、シャツのボタンをはめる手が止まり、兄は目を大きく瞠っていた。
「本気か? よく考えてのことか?」
「ん。ひつよう、おもう」
「そうか……」
しばらく、着替えを続けながら考え込み。
そうしてから、兄は一つ大きく頷いた。
「分かった。朝食後、父上と母上に話をしよう」
「ん。おねがい」
ザムに乗って兄とともに階下に降りると、父と母はもう食卓に着いていた。
上座の父を挟んで、母と向かい合う席に兄は座る。
ふつうならその隣なのだが、今日は母のすぐ傍に僕の席が用意された。『わたしの傍から離さない』という母の意思表明らしく、何だか嬉しい。
離乳食を自分の匙ですくって、口に運ぶ。零して母に拭いてもらう誘惑にも駆られたけど、今日は極力慎重に、自分でできると示すことにする。
それでも少しは口の端から顎に伝い落ちてしまい、嬉しそうに母がナプキンで拭ってくれた。
父と兄も、笑って見てくれている。
「ウォルフは今日の舞踏会の準備、抜かりないか」
「はい、父上」
「準備といっても、服装と最低限の礼儀をわきまえていれば問題ないがな。今年の成人前の参加はただの見学のようなもので、王族への挨拶もない。気を楽にして、見るものを楽しんでいればよい」
「それでも緊張するし、あの舞踏場の広さと煌びやかさには圧倒されるでしょうねえ。わたしも初めてのときには固くなって、ほとんど動けなくなっていました」
「母上もそうだったのですか」
「ええ。身体が丈夫でなかったのでそのような行事にはほとんど出ていなくて、十三歳のときが初めてだったのですけれどね。もう姉が王宮入りしていて、三歳になった王太子の初お目見えの予定だったので、妹として出ないわけにはいかなかったのです」
「そうだったのですね」
「とにかく初めてのときは緊張して当たり前、少しでも周りと親睦を深められれば十分ですよ」
「初めてはそんなものですか。あとは二度目三度目と慣れていく、と。回を重ねれば慣れていくものなのでしょうね」
「でしょうね。わたしはそこまで経験がないのですけど」
「そうなのですか?」
「恥ずかしながら、後にも先にも公の行事の参加はその一度きりなのです」
「ああ……」
考えてみると。兄の出産が母の十五歳のときなのだから、父の領地にやってきたのは十四になるかならずかということになるのだろう。
その後ほとんど領地を離れていないらしいし、実家のエルツベルガー侯爵家の人と会わないようにしてきたということだから、行事参加がそれきりだというのも大げさでなく事実と思われる。
「できれば私も目立たないようにしていたいのですが」と兄は苦笑いのような顔になって、父の後ろに控えていたヘルフリートの顔をちらと見た。
苦い顔で、青年は口の端を持ち上げる。
「無理でしょうな。数々の新機軸を打ち出したベルシュマン男爵のご長男は、今年の舞踏会で噂の筆頭です。繋がりを求めて近づいてくる貴族は、後を絶たないと思われます」
「やっぱり……」
長男に恨めしげな目を向けられて、父はそっと視線を斜め上に逸らした。
手にしたカトラリーを一度置き、こほんと空咳。
「有象無象の相手をする必要はないぞ。その辺は父が前に立つ。今回はベルネット公爵がぜひウォルフと話をしたいということだったのでな、最低限そちらは対応してもらいたい」
「分かりました、父上」
「ああ、あと、ロルツィング侯爵とも直接面識はなかったな。こちらとも挨拶はしておいた方がいい」
「はい」
「裏の詳細が分からないので、ルートルフの誘拐事件はまだ公にしていない。そういった見舞いのような声かけはないと思う。とにかくどこに敵がいるかも分からぬから、それ以上ウォルフは表に立たせない。基本的には、同年代の知り合いと話していればいいだろう」
「分かりました」
ベルネット公爵とロルツィング侯爵は、最近の一連の産業改革で協力している相手だ。
それでなくてもロルツィング侯爵領は我が領と隣接していて、どこへ行くにも通過しなければならない土地だし、いろいろ世話にもなっている。ここと友好関係を持っていなければベルシュマン男爵領は存続できないだろうほど、重要な相手と言える。
十分承知しているはずの兄は、神妙に頷いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます